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『あひるの家の冒険物語』 第12話  ポラン広場に集まって! ―その2―

―ポラン広場関西発足―

「あんたらなんて呼んだおぼえはないよ!出ていけよ!」と、ポラン広場の説明に訪れた私達に退席を求めたのは、奈良の八百屋『ろ』の高橋君でした。
つづけて、「なんでセンターは勝手にポランの集まりにいったんや。みんなと話してからにすべきじゃねえか。反省しろよ」と、別の八百屋が関君に詰め寄ったのです。
「何言うてんねん」と関君は立ちあがり、「プロジェクト・イシはなくなったんや。そやから、みんなっていうもんもなくなったんやで。バラバラや。おれは地域を結び合うセンターをやりたいんや。そやから、同じ考えのポラン広場に加わったんや」
「和歌山のみかんどないするんや。他の地域で売ってくれんかったら、百姓に約束したこと守れんやないか。どうするかききたいんや」
会議は真夜中をすぎてもつづいていた。
「もう少し様子を見よう」「JACともポランとも」「関西は関西で」といった発言に対し、「そらあかんわ。やりとうないわ」と関君は退け、この会議で関西は分解したのです。
3つのグループが去り、1センター5販売グループによってポラン広場関西が発足したのです。始まってから2年もたたない関西にとって、3グループの離脱は直ちに経営の困窮をもたらしたのです。
更に、JAC関西センターから(株)BIOマーケットに名称変更するにあたって、早急に155万円をJACに返済しなくてはならなくなったのです。
更に更に、JACとの物流を断ったことでことで、全ての品物を自前で見つけ出してくるしかなくなったのです。
関君は8名の百姓に株を買ってもらい、1名をBIOマーケットの取締役になってもらうことでお金を工面したのでした。
会議の後、関君のお姉さんが営んでいるお好み焼き屋さんに行って、焼きそばやお好み焼きをたらふく食べ、その夜は店の小上がりに布団を敷いて、ポランスタッフ5人は寝たのでした。
この頃、お金がなかったこともあったのですが、訪ねて行った所に泊めてもらい、訪ねて来た人は泊まってもらい、移動も一台の車に乗り込んで、車中「どうしようか」「そうしようか」などと話しながら目的地に向かったのです。
喋ったり食べたり飲んだり寝たりすることで、お互いを隔てていると思い込んでいた気負いや気張りがなくなっていったのです。そのことが、進むしかないポラン広場創成期の最大の力の源泉だったと思うのです。

―ポラン広場埼玉発足―

埼玉でも話し合いが続けられ、何度も訪れたものでした。
日々の物流はJACから十全に行われ、もともと「七軒でも八百屋なり」とか言って、その仲の良さを自負している地域でもありました。
そんな中、JAC埼玉センターの今井君は、JACから決断を迫られていました。
何回目かの八百屋たちとの会議で、「おれはJAC埼玉出張所長になるつもりはないんだよ。全国に仲間を作っていくネットワークの一環としての埼玉センターをやっていきたいんだよ。八百屋は好きな道を選んでくれていい。おれは決めているから」と言うのですが、八百屋の多くは「埼玉は一緒に」とか「ポランの奴等はなあ」とか「JACも大変そうだから」などと言って、決断をのばしていたのです。
JACに呼び出された今井君は、日頃のポラン広場寄りの発言を詰問された後、「JACの今後について」という文章を渡されたのです。5年間に亘るプロジェクト・イシの活動を全面的に否定し、「JACは消費者の健康に奉仕する流通サービス業を目指す」と記されてあったのです。
今井君の腹は決まったのです。
JAC埼玉センターの名称を(株)地球の子供たちセンター(略称ECO)に変更し、ECO単独でポラン広場参加を表明したのです。
ただ、ECOはゆゆしき事態に直面していたのです。
売り上げナンバー2・3・4位の八百屋はJACを選びそうだし、ナンバー1の八百屋野良は高校の後輩の大崎君に店をまかせ、今井君はセンター業務に力を注いできたのです。その大崎君をはじめ5人のスタッフ全員がJAC支持だったのです。更に、センター業務の大半を担っていた高嶋君もJACを支持していたのです。
そんな中でのポラン広場参加表明は、戦わずして敗れる可能性が大きい、瀬戸際の決断でした。
今井君は八百屋野良に行き、「おれも明日から一緒に働くからね」と伝えると、「それは困る。営業妨害だ」と的外れの答えが返ってきて、誰一人目を合わせようとしませんでした。
翌朝、店に行くと5人のスタッフは居ず、顧客名簿や移動販売のコース表もなくなっていたのです。
そして数日後、八百屋野良から500メートル離れたところに、大崎君たちの八百屋がオープンしたのです。
「話しを引きのばしていたのは、この日のためだったのか」と唇をかんで頭とかきむしるしかなかったのです。
八百屋野良は連れ合いのルミさんがやり、ECOは今井君がやるという綱渡りの日々が始まったのです。
1984年10月、新しい八百屋を加え、1センター5販売グループでポラン広場埼玉が発足したのです。
夢市場からの供給を受けながら、今井君は栃木を主に生産者とのつながりを拡げていくのでした。

―先行するポラン広場東京―

八王子小比企の小杉さん、府中の田代さん、小金井の千本木さんと、地域の有機農家とつながったのです。
小杉博子さんは「有機農業をやるのが結婚の条件だったんだからね」と夫・吉巳さんにプレッシャーをかけ、寡黙な青年田代さんは牛を飼いながら畑をやり、葉物類・果菜類を主にした千本木さんは都市農業の再生を夢みる、30才~40才の熱い心を抱いた百姓ばかりでした。
茨城・常総センター、山梨・清水さん、久津間さん(果樹)、静岡・渡辺さん、色本さん、愛知・天恵グループ、北海道・蔦井さん、阪井さん・・・。その中で傑出した百姓は、静岡から40分程行った標高800メートルにある梅ヶ島村でお茶と生椎茸とワサビを栽培している依田さんでした。
その立ち振る舞いは粗野で粗暴で山猿そのものでした。「村おこし」、それが彼の信じる唯一の神話でした。
出荷の打ち合わせで夢市場にやってきた依田さんは、「おまえら、村おこしを一緒にやるって言ったよな」「なに!売れるかどうかわかんない?!そんなチャラチャラしてることきいてんじゃねえよ。やるかやらないか、返事は2つに1つに決まってんだろうが」
飲み会になり、何故かぼくはレスリングの四の地固めを極められ、「代表!おまえ村おこしやるよな!」、あまりの痛さに「やります、やります」と言ってしまったのです。
1ヶ月後、「ワサビ戦記」「椎茸戦記」がはじまったのです。
「畑とつき合う」「畑を片付ける」ことを明言し、百姓たちの信頼を得ようとした各地のポラン広場グループは、注文数とは全く無関係に出荷されてくる野菜・果物に追いまくられるのでした。
キャベツ・ほうれん草・トマト・きゅうり・桃・・・・・・あらゆる物が販売力の数倍の量で長期に続くのです。
トラックやリヤカーでの販売を新たに始めたり、終電まで駅の改札口前で売ったり、夜の闇にまぎれてあふれるトマトを捨てにいったり・・・・・・。「戦記」と呼ぶにふさわしい奮闘ぶりだったのです。
あひるの家では、一橋大学エコロジー研究会の樋口ヤス子ちゃんが後輩に声をかけてくれ、大学通り増田書店前でエコ研スタッフのトマト売りが始まったのです。トマト・きゅうり・ナス・ピーマン・・・その日たくさんきた野菜をリヤカーに積んでいって路上に並べて売るのです。
2年生の末吉さんは、声もあげられず、立ちどまった人と目線を合わせることもできないでいました。
一週間後、「まっかに熟れたトマトおいしいですよ~」「とれたて新鮮無農薬のキュウリはいかがですか~」と遠くから声がきこえ、お客さんと談笑する姿は感動的でもありました。
夕立がきたので引き上げるよう行ってみると、樹の下で雨やどりをしていて、ブラジャーが透けて見える程濡れているので「終わりにしよう」と言うと、「もうすぐやむから、もう少し売ってから帰ります」とゆずらないのです。
そして、夏も終わりかけ、トマトもきゅうりも減少し、外売りをする必要もなくなったので「末吉さん、ありがとうね。これで終わりにしようか」と言うと、涙をポロポロあふれさせながら「もう少しやりたい。牛乳でもなんでも持っていって売りたい」と訴えるのでした。

圧倒的な販売力のなさがもたらした様々な「戦記」は、各グループの販売力の底上げにつながり、百姓たちの信頼もかち得たのだと思います。
追いつめられたと思っていた私達が、実は新しい扉の前に立って、今まさに開けようとしていた1年だったと思うのです。 

※静岡の山猿こと依田健太郎さん(通称ヨダケン)の写真は、ポラン広場東京のページからお借りしました(ピンボケですみません)。

『あひるの家の冒険物語』 第11話  ポラン広場に集まって! ―その1―

1984年2月25日、街のあちこちに溶けきらない雪が残り、隣接する井の頭公園の池をわたってくる風が頬をひきつらせる晴れわたった日でした。
吉祥寺にある武蔵野公開堂で『ポラン広場交流会』が催されたのです。『プロジェクト・イシ第2回全国大会』のためにキープしていた会場でした。
「ポラン広場発足をアピールしよう」ということで開催することにしたのです。350名定員の会場に、ポラン広場スタッフ25名を除くと50名程の参加がありました。
農家の参加は茨城土浦常総センターの桜井さんたち4人でした。パン屋、こんにゃく屋、豆腐屋、塩屋、本屋などが次々と登壇し、長かったり短かったりのアピールを繰り返しました。
舞台の壁には2枚のムシロ旗が掲げられ、赤字で「いつも心にムシロ旗」、黒字で「有機流通のネットワークを拡げよう!」と記されていました。
常総センターの桜井さんが登壇し、「ぼくはこういう舞台にあがるのはお断りしてるんです。生協なんかの集まりで舞台に登らされて、生産者アリガトウみたいな紹介をされるのだけど、おれたち飾り物じゃないんだと思っています。おれたちは消費者や流通販売者と対等につき合っていける生産者集団を目指していきます。これからなんだろうけど…。ポラン広場のみなさん、ガンバッテください」と、会場を見回し、戸惑いを浮かべながら話しをおえました。
関西センターの関君もやってきて、「関西センターはJACの子会社になるつもりも、単なる卸会社になるつもりもありません。各地域を結ぶ流通センターの一つとしてやっていきたい」と、ポラン広場ネットワークに参加することを表明したのです。
終了を2時間早め、4時に閉会したのです。会場は最後まで暖まることはありませんでした。
吉祥寺駅前の焼鳥屋『いせや』の一室に場所を移つして、30名程で交流会をやりました。
「清水で『無農薬野菜を作る会』というのが駅前でバザーをやってるってよ」
「多摩でも何人か有機で野菜作っているのがいるらしいから行ってみよう」
「パンだから牛乳どっかにないかな?」
「お菓子って売れるんだね。うちの子供たち大喜びだよ」
「関西と埼玉に行かなくちゃな。いつにするか」
・・・・・・・・・・・・ 話しは尽きず夜が更けていったのです。

農民グループ常総センター代表の桜井さんの所へ訪ねたのは、凍てつく1月の下旬でした。
「あんたらか?JACと別れたっていうんは」と笑顔で迎えてくれた桜井さんは、さっそく畑に連れていってくれ、幾人もの百姓たちに紹介してくれたのです。
日が暮れようとしている農家の土間には火の気がなく、熱いお茶を飲んでも体の震えはやむことはありませんでした。
桜井さんは、「誇りの持てる農業と農民をつくりだす」「流通販売や消費者のバイイングパワーに屈せず、対等の関係をつくっていく」etc.etc. 常総センターの姿勢が記された宣言を読みあげました。
「あんたらJACと違うって言うけど、JACに出せば高く売れるっていう風潮を作ったのは、あんたたちにも責任があるんだよ。噂だけど、米や味噌や野菜の袋を入れ替えてJACに高く出していたって話しもきこえてくるんだよ。そういうのは、百姓を駄目にしちゃうんだよ」
「あんたら、新しくやるならその辺りを本気で考えなくちゃダメだね。帰って皆でよく話してから返事くれよ」
帰ろうとするぼくたちに、「人参ないんだろ。もっていけよ」と袋に詰めた人参を車に積み込んでくれ、「腹へったろ」と寿司屋に案内してくれました。
「常総センターは接待されもしないし接待もしないけど、今日は何か特別だからおごりだ。さあ、食おう」
酒とお茶と寿司で体が温まってくると、桜井さんの口も緩んできたのでした。
「おれはさ、本当は百姓やりたくなかったんだよ。長男だから仕方なくやってるだけで、自信もなかったしね。結婚したかった女の人が2人いてね。1人は両親から、1人は本人から断られたんだよ。そんな将来性のない人とは結婚できない、ってね。おちこんで家を出てサラリーマンになろうかとも思ったなあ」
「でもなあ、気がついたんだよ、おれ自身のことじゃねえかって。そうだ!食べていけて、仲間ができて、夢のある農業やってやろうじゃねえかってね。それが有機農業だったし、常総センターだったわけさ」
この人は本当のことを言っている、この人は信じられる、と強く思ったのです。
桜井さんに見送られて6名のポランスタッフは、真夜中の国道を東京に向かったのです。さっきまで冷たかった風が、ほてった頬に心地よく感じられた夜でした。

あひるの家では、入荷が少なくなった野菜の棚を、お菓子を主に自然食品メーカーの品物が並べられたのです。その色鮮やかなパッケージは、店内を華やかに彩ってくれました。
それでも、生産者や製造者と出会う度に、ひとつひとつつながりのある品物がふえていったのです。
常総センターのほうれん草・小松菜・ニラ・人参・蓮根などの野菜、埼玉大同ミネラルパン・ピエールブッシュ・花小金井丸十製パンの国産小麦・天然酵母パン、横浜豆彦高田さんの国産大豆・天然にがり豆腐、群馬なんもく村工藤さんのこんにゃく・・・、出会いのエピソードなどをまじえ、店頭で山盛り販売がはじまるのでした。
その頃、あひるの家には谷保在住の20才代半ばの桑田君が加わったのです。指環やネックレス、ブローチなどを作って街中で売って生活していた桑田君にとって、「仕事」は初めての経験ということでした。
だから、KUWATAエピソードを2つ。
―エピソード1―
朝、遅刻することが多かった桑田君。朝仕切りをしているとこに駆けこんできて、いきなり土下座をして「スミマセン、スミマセン」と頭を下げつづけるのです。
ウンザリして「いいから早くやろうゼ」と言うと、店の奥に行ったきりなかなか出てこないのです。覗いて見ると、昨日作ったまかない飯をかきこんでいるのです。
「夕べ彼女とケンカして飯食ってないんすよ。スミマセン」
―エピソード2―
朝、店に行くと何か違和感があるのです。相川君も桑田君も軽快なフットワークで動いています。昼頃、店の奥の方が買い物に来られ、「今朝、スゴイ音がしたけど、何かあったの?」と尋くのです。
桑田君と相川君にきくと、5時頃店に来て、棚を全部隅に寄せて、2人で踊っていたとのことでした。
「家ではなかなか大きな音出せないし、踊れないし、音もれてたんですね。スミマセン」
一方、レストラン『ジャックと豆の木』は、オープニングスタッフの大森君から澄ちゃんにチーフがかわりました。エリちゃんミッちゃんのスタッフ以外に、音大や美大の学生たちがアルバイトで入るようになり、店はいつも華やかで笑い声にみちていました。
若いお客さんが急にふえ、一橋の学生や独身先生や八百屋、百姓などもよく顔を出すようになりました。
「今日、エッちゃんいる日?」と照れ臭そうに電話してきた一橋の先生は、「うちはキャバレーじゃないんだからさ」と一喝され、しょんぼりしていました。
あひるの家もジャックと豆の木も、一足早く「そこにいけば元気の出る広場」を、男と女の恋のさやあてを原動力に実現しつつあったようです。
JACからの全ての物流が止まるまであと20日。どこまで店の棚を充たせるか、一層拍車がかかったのです。
そして、その後には幾多の「戦記」が待ちかまえていたのです。

畑だより ―穫りの秋といくか?―

いよいよ北海道の大地からの野菜がはじまります。
北海道のヘソとよばれ、TVドラマ『北の国から』の舞台になった富良野麓郷の阪井君から出荷開始です。
キタキツネ・タヌキ・リス・モモンガ、時には熊という野生動物たちが生育するエリアに阪井君の畑はあります。
山間の畑に行った時、熊の足跡とフンがありました。「まだ新しいから今までいたんじゃないかな」と笑顔で語った阪井君は、カーラジオのボリュームをマックスにして畑仕事にとりかかったのです。私は「いつ熊が出てくるのか?」と鳥肌をたてながら、畑と森の境目あたりを見張っていました。慣れているとはいえ、「畑仕事に夢中になって、ふっと思った時、後ろを振り向けないんだよね」と語ります。
20才代前半にあひるの家のリヤカー八百屋を半年間やってからだから、有機農業歴は38年位になります。「阪井もおれも若かったなあ」とつくづく思います。
玉ねぎ・じゃが芋・南瓜、もしかしたら小豆・手亡豆・小麦が出ます。
秋はやっぱり果物です。甘かったり酸っぱかったり果汁が多かったり、疲れた体をいたわってくれます。
りんご・ぶどう各種、桃・梨・メロンと秋物がはじまり、バナナ・キウイフルーツ・小玉西瓜もでています。
果物は7月の高温少雨で全体に小粒ですが、甘いです。
野菜は全般的に少な目になっています。
7月の高温・雨降らずの干ばつ、一転8月の降雨・日照ナシで生育が難しく、病気もでてきています。
「昨年は台風、今年はコレ」と、気候の変化に翻弄されています。
元々、9月は夏野菜が終わりに向かい冬野菜がまだまだという端境期でもあるので、「野菜がナイ!」「ある野菜食べて!」のやりとりが店頭で繰りひろげられることになりそうです。
そうは言っても、北原君のナス・キュウリ・オクラは抜群に旨いし、れんこん・冬瓜・里芋・さつま芋と新物も出てきたし、結構料理の幅がもてそうです。
まだまだ暑い!すっかり疲れた体を、しっかり食べて甦らせましょう。
あっ、今ファックスがきました。栃木・鈴木章さんから新米コシヒカリが出ます。

『あひるの家の冒険物語』 第10話  宮沢賢治の物語がおわったところから、わたしたちの物語をはじめよう!

1983年11月5日、国分寺のプロジェクト・イシの事務所には、茨城の百姓代表の野原さんや茨城のイシ農場の近田君や札幌の八百屋『夢屋』の大堀君や、まだ癒えていない脚をひきずりながら関西から関君も駆けつけていました。
プロジェクト・イシの今後を決定する採決会議が開かれようとしていました。「ああ」とか「やあ」とか声を掛け合うことはあっても誰もが言葉少なで、頬は紅潮し視線が定まらない様子でした。
「それではプロジェクト・イシ採決会議をはじめます。4つの案がでているので、過半数をこえた案がこれからのプロジェクト・イシの方向となります」と口火を切ったぼくの声も指先も震えていました。

(一案)執行部総辞職・イシ再建委員会設置 ― 否決
(二案)イシを交流の場に ― 否決
(三案)加工品を主にした新センター設立 ― 否決

「アレ?」「どうして?」「なんで?」というつぶやきが広がりました。
残るはJAC代表の吉川君提案の「イシ解散案」だけになりました。吉川君から「私を信じてください」というペーパーが配られました。

(四案)イシ解散 ― 可決

イシ継続グループが「イシ解散」に挙手することで可決採決ということになったのです。
これまで採決のたびにメモをとっていた吉川君は、手をとめ眼を真っ赤に充血させながら、帰ろうとする一人一人に「JACを信じて」「オレを信じて」と訴えていました。
多かれ少なかれ、八百屋は勿論のこと百姓たちや豆腐屋やパン屋や・・・も含めて、個人やグループでは為し得ない夢や拡がりを、プロジェクト・イシという共有のテーブルにのせることで実現してきたのです。
そのテーブルが今消え去ったのでした。
6年前、ひょんなことからはじめたリヤカー八百屋でしたが、しばらくすると「いつやめよう、いつやめよう」と思っていたぼくに、「八百屋でいこう!」と思わせたのはプロジェクト・イシというテーブルでした。
学生時代憧れていた活動家の女の人に「あんたは兵隊よね」と言われヘラヘラしていたぼくが、「遠くまでいくんだ!」と主体的になれたのもプロジェクト・イシの活動の中でした。
プロジェクト・イシの幕引きのためだけに代表に選ばれた結果となり、吉川君や荒田君やナモさんたちに「ハメラレタ?」と悔しい思いでした。
もっと遠くまでいくために何をしたらいいのか、一人一人が自らに問うページが開かれたのです。

イシ解散にともなってJACから通告文が送られてきたのです。

1)生産者とのつながりはJACの専有事項なので、訪問・取引は禁止する。

2)JACと名を冠した関西・埼玉のセンターや小売グループは、直ちにJACの名を外した名称に変更すること。

3)これ等に違反した場合は、直ちに取引を停止する。

というものでした。
JAC加工品部を退職した小野田君をはじめとした5人が100万円ずつ出し合って、多摩市関戸の多摩川べりに『夢市場共同流通センター』を発足させ、東京の4つの販売グループ(KIVA-青梅・苫屋-武蔵小金井・結-阿佐ヶ谷・あひるの家-国立)と12月、新グループ結成会合をもったのでした。
「JACの干渉を避けるため奥多摩にしたから」と連絡があり、あひるの家からは免許取りたての久美さんの運転で、薄暗くなりはじめた山道を相川君とぼくと3人の子供たちを乗せて走っていったのです。
「街中だってたいして走ってないのによくわからない山道をいくんだから、着いた時はもうクタクタ。会議どころじゃないわよ」ということでした。
降りたったところは山間の廃校になった学校みたいで、広いグラウンドがありました。
「なにもこんなところでやらなくたっていいじゃないか。これじゃあ追いつめられた連合赤軍みたいじゃねえかよ」と思ったものでした。
ホールの半分には既に布団が敷かれ、子供たちが寝転んだり、走りまわっていました。大人20名、乳幼児を主に子供13名の大にぎわいです。
車座になりながら話し合いを進めるのですが、赤ちゃんを抱っこしながらの参加も多く、話しの途中で「ちょっと待って。おむつ替えてくるから」「お腹すいてるみたいだから、おっぱいあげてくるワ」と席を外す者も多く、話しが進んだかなと思った矢先、「うんこー、うんこでちゃうー」「オモチャ取られたー」と泣き叫ぶ子や、「腹へったー」と訴える子や、会議の体をなさず、大家族キャンプの様相でした。
夜も更けて子供たちもおおかた眠りについた頃、「これだけは決めておこう」という話しにはいったのです。
グループの名称についていろいろ出し合っている時、KIVAの神足君が一冊の本をとりだし、「これがどうだろう」と読みはじめたのです。宮沢賢治の『ポラーノの広場』の最終章の一節でした。

そうだ、あんな卑怯な、みっともない、わざと自分を誤魔化すような、そんなポラーノの広場ではなく、そこへ夜行って歌えば、またそこで風を吸えば、もう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢がよくて面白いような、そういうポラーノの広場をぼくらはみんなでこさえよう。
ぼくはきっと出来ると思う。なぜならぼくらがそれをいま考えているのだから。

各々の役割も決定しました。
代表-狩野(あひるの家)、事務局長-木浪(結)、生産企画-神足(KIVA)、流通企画-鴻江(苫屋)、加工品企画-小野田(夢市場)、各グループのスタッフ全員が各委員会のメンバーともなりました。
そして、農家に依頼している作付野菜が終了する1984年3月末日をもってJACとの取引を終了する旨通告することになりました。
窓の外をながめると、凍てついた漆黒の闇の中に満天の星が輝いていました。

年が明け1984年、ポラン広場5グループの代表は茨城の農家を訪ね、イシ解散の経緯と、JACと分かれポラン広場を発足したことを説明し、謝罪とともにポラン広場への出荷をお願いしたのです。
「まあなんだ、一つの幹からできた二つの枝みたいなもんだっぺ。JACに出してポランに出さないってわけにいかんめえよ」
別の農家が、「どっちも良く知ってる奴ばっかだしな。おれたちはこれまでどうりってことでどうだんべか」と発言し、他の農家も「うんだ」「そうすべえよ」とうなずく姿があちこちで見られました。
ホッとした空気が流れ、「がんばるべえ」「よろしく」と杯があげられたのです。
ところがだったのです。東京に戻り、お礼とこれからのことを打ち合わせしようと連絡すると、「JACがなあ…」と言葉を濁しました。
「ポラン広場に出荷した農家の野菜はJACは扱わない」と連絡してきたとのことでした。
JACがつき合っている80名程の農家のうち、果物と北海道の農家(JAC単独では扱えない)以外誰も出荷してくれる見込みがなくなり、新しい生産者探しが切迫したものになっていくのでした。
同時にポラン広場グループへのJACからの出荷制限がはじまり、あひるの家の野菜の棚は日を追うごとに淋しくなっていくのでした。
加工品担当の小野田君は、これまで扱うことを避けていたお菓子を主にした「自然食品」を緊急避難的に導入しながら、豆腐・牛乳・パン・味噌・醤油・魚と次々と製造者を見つけ出しコンタクトをとり、企画のテーブルに提案していきました。
3月末日まであと2ヶ月、5グループの代表は1台のワゴン車で東京~茨城~山梨~静岡~愛知~北海道へ、生産者や製造者との出会いを求めて駆けつづける日々が続くのでした。
この年、東京は雪の多い冬を迎えていました。消えることのない雪に、また重たい雪が降りつもっていきました。
店先で雪をかきながら投げ上げた雪片は、陽の光にキラキラ輝きながら舞い消えていきました。
頬をなでる風が春が近いことと、雪をとかす水音がきこえてきこえてくるようでした。

9月9日(土)10日(日)「今はまだ帰れません」イベントへのお誘い


~9日(土)昼から~

福島県富岡町を主に、避難解除された地域を訪ねます。

住民は帰っているのだろうか?帰っていいのだろうか?見て、聞いて、感じて、福島の復興の現状とこれからを市村さん(避難者)に案内してもらいながら考えましょう。

~9日(土)夕方から10日(日)昼まで~

福島県三春町上三坂の村祭りに参加させていただき、夜祭りを楽しみます。
翌日は300年つづく上三坂の神事に参加させていただいて、伝統・伝承のおごそかさを体験したいと思います。
昼食は農家レストラン『ぷろばんす亭』で、野菜たっぷりご飯をごちそうになります。
宿泊はリニューアルしたコミュニティーハウス『OJONCO館』でエンドレスの夜を過ごします。
費用は2万円位(マイクロバスのチャーター代が未定なので)だと思います。

2月、避難して来ている市村さんと鹿目さんに国立に来ていただいて、「今はまだ帰れません」トークセッションを催しました。今度は「行ってみよう」ということで、今回の企画となりました。上三坂の村祭り、神事もあって、村長(区長)さんをはじめ村民あげて大歓迎してくれているので楽しみです。都合をつけて一緒に行きませんか?

お問い合わせ あひるの家 狩野まで(080-4351-1353)

『あひるの家の冒険物語』 第9話 暗転 第二幕 ―長くて暑い夏がやってきた―

関西グループの事故対応から戻ってきてから1週間後の1983年9月10日、プロジェクト・イシの全体会議が開かれました。国分寺のイシ事務所には70名程の人が集まり、入りきれない人は窓の外から会議に参加していました。
「吉川さん(プロジェクト・イシ前代表・JAC代表)から“爆弾発言”があるらしい」という噂が流れていたからです。

2ヶ月前の7月1日、JACからの野菜の納品伝票とともに、吉川君の“プロジェクト・イシ代表辞任届”が添付されていたのです。
「イシ代表の任はあまりにも重いものでした。今後はJACの仕事に専念することで、イシの拡がりや八百屋の発展に尽くしていきたい」という内容でした。
真意を確かめたくて吉川君に連絡をとるのだけど、つかまりませんでした。
「これは何だ?」「何があった?」「あの吉川さんがここまで追い詰められたのには訳がある筈だ?」「執行部内の確執ではないか?」・・・・・・の声があがりはじめていくのでした。
ぼくにとって吉川君は、最も信頼し尊敬していた人でした。関西、埼玉でのセンターづくりや、プロジェクト・イシ全国大会などをともに推し進めてきた同志でした。
吉川君の唐突な“辞任劇”はよく解せなかったのですが、彼の果たせなかったことを引き継ぐことが感謝の気持ちになると思い、8月5日のイシ全体会議で代表に立候補し、選任されたのです。小学、中学の学級委員を含め、自ら手を挙げたのは初めてのことでした。
1週間後の8月13日、関西グループの事故がおこり、2週間余り大阪にとどまることになってしまったのです。
“爆弾発言”の噂はきこえていたので、大阪から何度も電話をかけるのですが、吉川君がなかなか電話口に出てくれず、ようやく出ても「そんなボス交渉みたいなことはやらない。9月の会議でみんなに直接話す」と言うばかりでした

当日、吉川君からは「プロジェクト・イシ会員の全ての人々へ」という15ページにわたる文章が提出されました。おおむね二つの点についての疑義が記されていました。

一 現執行スタッフの言っていることとやっていることの矛盾。
二 プロジェクト・イシの活動の中から発足したJAC関西、JAC埼玉のセンターの株の55%をイシが保有するのは当然だと思うが、JACの株は荒田、金田、吉川の3人で保有している訳だから、JACの株も55%イシが保有すべきだという考えには反対である。もしこれをおしすすめるなら、JACはイシを脱退する。

というものでした。

代表であるぼくへの批判は以下の4点でした。

(1) “連帯”を語りながら自分のグループでは次々とスタッフが辞めてゆき、亡くなった者までいるという現実は、“連帯”と言いながら“専制”を強いた結果なのではないか?
(2) 初代イシ代表(荒田君)にイシ代表、JAC代表の兼務を批判し辞任を迫ったのに、自分はあひるの家代表、JAC関西代表、プロジェクト・イシ代表と3つも兼務していることの矛盾をどう考えているのか?
(3) “都市と農村の連帯”を唱えながら、農場の経営、運営が行き詰まると「つぶしてしまえ」と言ったことの矛盾をどう説明するのか?
(4) 本来プロジェクト・イシが負うべき2つのセンターの株購入代金、農場の土地返済金等の600万円をJACが肩代わりせざるをえなかった同時期、あひるの家の2Fを400万円かけてレストランにしたのは、“みんな”と“自分”の使い分けではないか?

吉川君の文章は次のように結ばれるのでした。

「理念を築く為の現実を担う努力と責任感と自覚がない中での渦の拡がりは、自壊を招くだけなのだと思います。今は原点としての八百屋の現場に立ち戻るべきです」

10月1日、全体会議が開かれ批判された執行部スタッフから、50ページに及ぶ回答・反論・改革案文が提出されました。しかし、この反論文がまともに検討されることはありませんでした。
本来なら、吉川君の疑義に対して、事実と事実をつき合せて、至らないところを解決する方法を探るというのが議論の進め方だと思うのですが、そうはならなかったのです。
この1ヶ月の間に、個人的だったりグループ間だったり、様々な集まりが繰り返されていました。色分けができてしまっていたのです。
「吉川さんが言っているように…」「そうは言っても本当はちがうんじゃない。オレはいなかったけど」「オレは権力は嫌いです。嘘も嫌いです。だから、イシがそうなら原点に戻るべきです」「あんたたち論理的すぎない。人間そんなもんじゃないわよ」「この八百屋はナモ(長本兄弟商会代表)たちが始めたんで、あんたたち後からきた人たちでしょ」「イシの名を語ってJACを乗っとろうとしているんじゃないの」……
今まで主体的にイシ活動を担うことのなかった人達の発言があいつぎました。11月の全体会議で今後の方向の採決を行うことになりました。
深夜店に戻ったぼくは、憤りと諦めの気持ちで叫びだしそうでした。
椅子を持ちだしてじゃが芋の芽をかいたり、枯れたネギの葉先を切ったり、玉ねぎの皮をむいたりしました。
時は既に1時を回っていました。玉ねぎの皮を1枚また1枚とむいていると、泡立った気持ちが山奥の湖のほとりに立っているような静けさにつつまれるのです。
シャッターを閉めて家に帰る道々、「ああ、八百屋でよかったなあ」と思ったものでした。
11月の採決会議に向けて、イシ継続グループが営業の終わった『ジャックと豆の木』などに集まって協議を繰り返しました。
その頃JACでは、スタッフ合議制を廃止し、復帰した前JAC代表の荒田君が全てを決める体制に変更していきました。JACの加工品部として大きく売り上げを伸ばし、合議制、センター構想を推進してきた小野田君・針生さんをはじめ5名がJACを退職し、この集まりに合流しはじめました。
11月の採決会議には4つの案が出されていました。

1) 小野田君たちの加工品を主にした新センター案。
2) イシを交流の場に案。
3) イシの活動停止、執行部総辞職、イシ再建委員会設置案。
4) イシ解散、現場に戻ろう案。

4)のイシ解散案は吉川君からの提案でした。1)~3)の案を巡って、イシ継続グループの話し合いが行われました。
イシ継続グループといっても、各々「有機農業」「流通販売」「ネットワーク」の3つの要素に対する力点が異なり、これまでのイシ活動の中で張り合ったり、反目し合ったりの経緯のあるグループ同士でした。更に、妥協する位ならグループ単独で「自走する」ことを選択する人たちでもありました。
「なんとプライドの高い、わがままな、めんどうくさい奴等なんだろう」と何度も思ったものでした。まるで15年前の文言を思い出させるやりとりでした。
「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫けることを拒否する」
そしてイシ継続グループは、11月の採決会議に向けて一つの結論を出したのでした。

畑だより ―夏野菜・果物のハイシーズンがはじまった!―

「雨がふらない」「畑に入ると土ぼこりがたつ」「水を求めて虫たちが畑の野菜に取りついている」「水分を吸われて、しおれたり元気がない」「たのむから畑の土にしみこむ程の雨がほしい」・・・・・・と、打つ手がない状況が続いています。
そんな中、気温が高く雨が少ないことでおいしくなっているのが果物です(全体的に小ぶりですが)。
夏人気No1の桃が、山梨一宮・久津間さんから届きます。15品種の桃が7月初旬~8月中旬まで、1品種2週間位の期間で出荷されてきます。
少し遅れて、蜜のしたたる貴陽(すもも)もでます。すももは大石早生・ソルダム・サマーエンジェル・太陽など、食味・色味のちがうものが楽しめます。
野生種の甘酸っぱいガラリ(すもも)が、奄美大島から届いています。
シャキシャキ甘い西瓜は小玉、マダーボール、大玉と続きます。
栃木・浜田さんのブルーベリー、千葉銚子の萩原さんからタカミメロン、ラブコールメロン、グランドールメロンなど、実が緑色だったりオレンジ色だったりのメロンがでます。いずれも甘い!です。
沖縄石垣島・平安名さんから、甘味が濃く酸味のあるパイナップルが大・中・小ででています。
オーガニック&フェアトレード果物は、キウイフルーツ(ニュージーランド)、バナナ(エクアドル)が入荷中です。
「どれを食べようかな」楽しみがふえてきました。
野菜です。
直送野菜は栃木の田島君からトマトが始まりました。価格も半分位に下がりました。
同じく栃木の鈴木明さんからはきゅうり・枝豆・インゲン・モロヘイヤ・ツルムラサキ・マロン南瓜が届いています。
神奈川の北原君は全品露地栽培(実はお金がなくてビニールハウスをたてられない)なので、大幅に夏野菜が遅れています。8月6日(日)には夏野菜フェアを企画中!今はじゃが芋5種・人参・ズッキーニ・グリーンセロリと地味系の入荷です。
いちごの竹村さんから新ニンニクがでます。いちごの前にニンニクを作ると、虫と病気が出にくいということです。
あとは、なす・みょうがを除いて、夏野菜が揃いはじめました。産地も沖縄・九州から関東に移ってきているので値段が下がってきています。
葉物類はほうれん草・小松菜が減少して、ツルムラサキ・モロヘイヤにバトンタッチ。そうそう、とうもろこし旨いです。
蒸し暑い日がはじまっています。ちゃんと食べて夏バテにならないようにしましょう。
雨よこい!

『あひるの家の冒険物語』 第8話  暗転 第一幕 ―長くて暑い夏がはじまった―

その電話が鳴ったのは1983年8月13日朝4時頃です。
その日は東京・埼玉・大阪・京都の八百屋たちとお客さんが、北軽井沢の農家に集まってサマーキャンプを催す日でした。
「関たちの車が東名高速で事故をおこして、病院にかつぎこまれた」の一報でした。
サマーキャンプはそのまま実施してもらうことにして、JACの吉川君、森崎君と長野県駒ケ根総合病院に向ったのです。帰省ラッシュを避けるため、山道や一般道を走りつづけていきました。途中で病院に連絡を入れると、「死亡者1名、重傷者6名、軽傷者1名で、運転者の居眠りが原因。氏名の詳細はわからない」ということでした。
飯を食べに入った食堂のテレビでは、トップニュースとしてグシャグシャになって横転しているワゴン車の映像とともに報じられ、「お盆のこの時期、みなさんも運転にはくれぐれもお気を付けください」と注意喚起を促していました。
亡くなったのは関君の八百屋『たんぽぽ』のスタッフ「坊さん」でした。穏やかで懐っこくてまめに働く青年は、スタッフからも子供たちからも「坊さん、坊さん」と親しまれていました。
昼過ぎに到着し、病室に向いました。下半身打撲の関君はベッドを背に半身を起していました。
「眠っていたらすごい衝撃を受け、気がついたら道路に投げ出されていた…。後から車が突っこんでこないよう“来るな~!”“助けてくれ~!”と手を振って叫んだり、血だらけで転がっている子供や大人のところにいって“ガンバレ!もうすぐ助けがくるゾ”と声をかけたり…。まるで地獄だった…。」
息をのみこんだ関君は、「坊さんが…坊さんが…死んじゃったよ」と、巨体をふるわせ泣きじゃくるばかりでした。
由美子さん(関君の妻)のところにいくと、「狩野さん、来てくれたんだ…」と呟いた後は、目を閉じて涙を流しつづけていました。顔を近づけると汗と血の臭いと、顔や腕にはかわいた血がこびりついていました。
事故にあったのは全員八百屋『たんぽぽ』のスタッフで、4人の子供たちも含まれていました。

宝塚線甲東園駅前の八百屋『たんぽぽ』に着いたのは、8時を少し回った頃です。スタッフの玲子ちゃん、大阪能勢の3人の百姓、やさか味噌の小村さんとJAC関西センターのさだめちゃん、深沢君が待っていました。
事故の様子と各人の容体を伝えると、玲子ちゃんが、「みんなを見送ったのは10時位だったのよね。坊さんは引き売りから帰って来て“明日から休みなので、トマト残ってるから売ってきます”と駅前に出かけ、戻って来てすぐ出発したから…。疲れきってたのよ…」と泣きだし、能勢の原田君が背中を撫でながら声をかけていました。
『たんぽぽ』の店販売は玲子ちゃんと能勢の原田君と山田君が交代で入り、センター業務は2人のスタッフとJACからの応援メンバーで、集荷に行っていた所には配送してくれるようお願いして、保険会社との連絡はやさかの小村さんが、そして病院・JACとの連絡など全般はぼくが担うことでともかく乗り切っていこうということになりました。
発足2ヶ月足らずのJAC関西センターは、全てを担っていた関君と、数少ない販売グループの柱だった八百屋『たんぽぽ』の機能停止状態は、存続・継続が見通せない状態に陥ったのです。

その夜、閉まりかけの風呂屋にかけこみ汗を流し、店舗兼住宅の2Fにあがりました。6畳4畳半の部屋は、窓を開け放しても扇風機を最強にしても吹き出る汗と湿気を振りはらうことはできません。「酒を飲めない」体質を恨みつつ、水を飲みつづけていました。部屋の狭さには不似合いなウッドベースがド~ンとおいてあり、写真立てにはヒロくんとユカちゃんの2人の子供の写真が飾ってありました。
主のいない家に入りこんだ居候人みたいで、居場所がみつからないのです。畳の上でゴロゴロ寝転んでいると夜が明けてきたのです。アパートの裏の共同洗濯場に行き、パンツ1枚になってホースで頭から水を浴びました。まだ5時だというのに、道路からは澱んだ灼熱の空気がたちのぼっていました。
翌日から、大阪豊中のJAC関西センターに行ったり、やさかの小村さんと保険会社に行ったり、『たんぽぽ』の店番をやったり、JACと連絡をとりあったりしました。移動は全て電車か徒歩なので(酒が飲めないだけでなく、車の運転もできない!)、乗り換えも少しスムーズに行くようになってきました。
あひるの家に電話をすると久美さんがでて、「みんな元気にやってるよ。八百屋のみんなも手伝いにきてくれているし、子供たちもプールに行ったり夏休みしてるよ。そっちはどう?」ときき、ほっとしたのです。
寝不足(枕がかわると眠れない!)と暑さと関西弁に疲れ切っていたぼくは、環状線に乗ってひたすら眠りつづけたり、内緒で1日だけビジネスホテルに避難したりしました。
実は、やることがあるようで何もすることがないのだけど、関君が戻ってくるまで居ようと思っていたのです。
8月も終わろうとする頃、まだ足をひきづりながら関君が退院してきたのです。
関君と「坊さん」のご実家に伺い、線香をあげさせていただきました。関君は巨体を折り曲げ、ひたすら「申し訳ありません、申し訳ありません」と涙を流しながら謝りつづけ、坊さんのお母さんも「お子さんたちにもケガをさせて申し訳ありません」と頭を下げつづけていました。
帰りの電車で、「入院してる時、由美子さんと“坊さんも死んじゃったし、もう八百屋はやめよう”と話していたんですわ。でも退院してきて、みんながこんなにも応援してくれてるのを見て、由美子さんとも話して、もう一度頑張ってみようかと思ったんだよね」と関君が話してくれ、ほっとしたのです。

その年の4月、あひるの家は新しいスタッフではじまりました。2月にクリクリ坊主の高校生がやってきて、「卒業したら八百屋をやりたい」と言ってきたのです。
「どうして八百屋なの?景気良さそうだから、就職先いっぱいあるんじゃない?」
「友達みんなそうなんだけど、サラリーマンにはなりたくなかったんですよね。店の前を何回か通って買い物もしてみたんだけど、楽しそうで格好良かったんですよね」
ということで、相川君はリヤカーを改装して八百屋をはじめたのです。
初日、「いってきま~す」とニコニコしながら出発し、3時過ぎに帰ってきました。店を出て、大学通りを渡って、スーパー紀ノ國屋の横を通って、富士見通りのちょっと先までだったそうです。「明日はその200m先からはじめます」と、ニコニコしながら報告してくれました、
久美さん(妻)も、11年勤めた保母の仕事を辞めて、4月に加わりました。プロジェクト・イシ全国大会にスタッフとして関わったのがはじめてで、国立商工会館での分科会は主メンバーとして担っていました。
「八百屋はじめた頃から、いろんな人が家にご飯を食べにきたよね。仁君や荒田君やキンタさんや…、個性的で魅力的で、自分の道は自分でつくるみたいな姿を見て、今まで私が出会ったことのないタイプの人だったなあ」
「いつか、この人たちと一緒に働けたら、いろいろ影響受けて自分も変われるんじゃないかと思っていた訳。そう、ず~っと変わりたかったんだと思う」
そう、八百屋に加わった動機を語りました。
久美さんが先ずやった仕事は、3年前に発行した「あひるの家債券」購入者への返済です。
引っ越した人、連絡のとれない人もいて、探偵のように少ない情報をつなぎ合わせてつきとめるのです。今なおだどりつけなかった人は2名です(お心当たりの方はお申し出ください。有効期限はありません)。それと、車の免許をとるために教習所に通いはじめました。
もう一人、店に買い物にきて、よく“まかない飯”を作ってくれていたジャズピアニストの大森君が加わりました。
車・リヤカー2台・出店販売をやめて、相川君の週3回リヤカー販売以外は、店販売と配達に切り換えました。外売りがなくなったことで店内の雰囲気はゆったり朗らかで明るくなったのです。
ただ、400万円/月の売り上げだと、20~30万円/月の赤字が続くのです。家賃は払っているけど活用できていない2Fをどうしようかと4人で話し合いました。
「大森さんのまかない飯うまいんですよね。オレ毎日でも食べたいんですよ」と相川君が言い、久美さんもぼくも「そうだ、そうだ、そうしよう」と言うと、大森君は照れくさそうに「そうかなあ、できるかなあ」ということで“めし屋”をやることになったのです。
あひるの家の食材だけで作る食堂の屋号は『ジャックと豆の木』に決まりました。改装工事はプロジェクト・イシ小川バンドにお願いし、大森君は食品衛生士の資格をとったり、かっぱ橋に買い出しにいったりしました。
開店資金は銀行からと、再び「ジャックと豆の木・豆券」という債券を発行し、100万円近い債券を購入していただいたのです。
急な階段を登って重々しい扉を開けると、梁がむきだしの吹き抜け天井が狭い空間を広くみせ、2つの出窓にはデンデン虫の灯りがともり、センターテーブルと3つの小さなテーブル、15席という小ささなのですが、とってもあったかい感じの“めし屋”ができあがったのです。
10月3日『ジャックと豆の木』はオープンしたのです。
スタッフは大森君と、マクロビオティック料理を得意とする洋子さんの2人。初日のメニューは豆カレーと豆腐ハンバーグとさんま焼定食、飲み物は三年番茶とジンジャーティーとコーヒー、ご飯は玄米でした。
開店初日、お客さんは3組5人でした。大森君が1Fの八百屋におりてきて、「お客さんがこないなあ」とうつろに佇んでいる姿が思い出されます。

暑い夏が終ろうとしていました。
ところが、9月3日プロジェクト・イシのテーブルに「プロジェクト・イシ会員の皆様へ」という15ページにわたる文章が提出されてのです。
残暑どころか、かつてない酷暑の日々がはじまったのでした。

注:写真は現在のあひるの家の2階(事務所兼倉庫兼休憩所)です。

【梅】【らっきょう】ご予約承り中

あひるの家販売ランキングbest3にいつもランキングしているのが、王隠堂さんの【有機梅干】です。「この梅干おいしいのよね」と、まとめて買っていかれる方が何人もいます。たしかに塩もいいし、しそもいっぱい入っているけど、やっぱり梅が旨いんだと思います。
奈良・西吉野の山中、標高400mのところにある王隠堂さんの梅林の土は、ふっかふかであったかそうです。それと、王隠堂さんの家はその名の通り、南北朝時代後醍醐天皇をかくまったことで名字帯刀を許された由緒ある家系で、その頃から梅を栽培していたそうですから、もう歴史的産物ということになります。歴史と時代が合体した産物が、王隠堂さんの梅です。
子供が大好きな梅ジュース・梅シロップ漬けは、作るのカンタン、1ヶ月位から飲めるので、この夏中楽しめます。大人が大好きな梅酒も作るのカンタンというか、ただ焼酎と梅を合わせるだけみたいなもんです。3ヶ月位でおいしくいただけます。
誰もが顔をしかめながら、それでも1年中食べている梅干は、ちょっと手間がかかりますが、その分自家製梅干は旨いです。夏を越えた頃から食べ頃になります。
最近漬ける人が急増しているのがらっきょうです。甘酢漬け、塩漬けがありますが、パリパリで食べたい人は2~3日漬ければOKです。味がしみて少しやわらかいのをお好みの人は1ヶ月待ってください。むきながら味噌なんかつけて食べる生らっきょうもおすすめです。
只今漬け方レシピ配布中。「な~んだ、これならわたしにもできる」と思った人、ご注文ください。期間はわずか2週間、1kgからやってみよう。

【有機青梅(梅酒・梅シロップ用)】 1kg 1,130円 入荷期間:6/5(月)~6/17(土)

【有機青梅(梅干用)】 1kg 1,130円 入荷期間:6/19(月)~7/1(土)

【らっきょう】 1kg 680円 5kg 3,200円  茨城・小沼さん 農薬・化学肥料不使用 入荷期間:6/19(月)~3週間位

お渡し希望日の1週間前までにご注文ください。

※今季【有機青梅】が不作のため早期終了の可能性があります。また【らっきょう】も雨天時は掘り出しができないため欠品となります。【有機青梅】【らっきょう】ともに、なるべく早めのご予約をお勧めします。

『あひるの家の冒険物語』 第7話  祝祭

プロジェクト・イシ発足から2年(1980年初夏)、一つの提案がテーブルに出されたのです。「現場へ戻ろう!」というものでした。
「限定された条件の枠を超えて目標を掲げることを冒険と呼ぶなら、この八百屋の発足自体がその危険の中に身を投じていたことになる。有機無農薬農産物の流通販売そのものが冒険であったのだ」
「更に、プロジェクト・イシ(より人間的な)という未だ誰もが仕事のテーマとして取り組むことのなかったことにチャレンジしようとしてきた」
「しかし、プロジェクト・イシの発足は早すぎたのかもしれない。野菜の流通販売のノウハウを確立してからだったのかもしれない……。プロジェクト・イシを交流の場としつつ、来るべき時を待とう」
と語る、プロジェクト・イシの発案者で代表でJACの代表でもある荒田君の表情は、苦渋に満ちたものだった。
参加グループの採決の結果は提案否決が多数を占め、荒田君はイシからもJACからも退き、旅に出たのでした。

プロジェクト・イシの関西担当だったぼくは、近鉄奈良線学園前駅の近くにオープンした八百屋『ろ』の応援に、関君と駆けつけていた。『ろ』の高橋ファミリーはあひるの家のお客さんでもあって、奈良に帰る前1週間程、あひるの家で研修していった。
「『ろ』の開店のニュースを新聞で見たので、是非話しがききたい」と電話があり、翌日関君と吉野杉の林立する山道を行くのですが、人家らしきものはなく、公衆電話なんて見つかりもしません。
「いたずらかよ。帰ろうか、腹へったな」と戻ろうとした時、小高い丘の頂に屋敷があったのです。
門には『王隠堂』と表札がかけられ、飛び石伝いの向こうには玄関があり、声をかけたのですが人の気配が感じられません。重々しい扉を開けると籠が置かれ、開けはなたれた襖には毛筆でなにやら書いてありました。
もう一度声をかけると、家の奥からトントントンと軽快な足音がし、もんぺ姿の女性が渡り廊下を渡ってくるところでした。
「政見は柿畑にいますから」と案内された畑では、柿の木の根元に骨粉をしきつめる作業中でした。
家に戻り部屋に招かれ、「おなかすいたでしょう。召しあがっていってくださいな」と運ばれてきたお盆には、半割りにした青竹に素麺が盛られ、汁椀も青竹でした。食べた後、空腹感が更にましたようでした。
王隠堂政見さんは400年以上続く王隠堂家の当主で、ぼくより3~4才年下のようでした。
「王隠堂って何かスゴイ名前だよね?」
「南北朝時代に後醍醐天皇を匿ったことからの由来でんねん」
山々を見ながら、「王隠堂さんの所有地ってどの位あるんだい?」
腕をぐるりと回して、「見えるところ全てです」
「ところで、何で電話してきたの?」
「西吉野村は昔林業で栄えていたのだけど、今は梅と柿くらいしかないんですわ。傾斜地ばかりで栽培も難しいし、収穫も上がりしまへん。平地に負けない何かを探していたんですわ」
梅・柿の取り扱いは勿論のこと、梅・柿を使った商品は何かないか、話しが盛りあがっていきました。同世代で新しいことを始めるんだというワクワク感もあり、「王隠堂」「狩野さん」「関さん」と呼び合うようになっていました。
かつての大地主王隠堂にとって、西吉野村の再興を「有機」に賭けようとと思ったのだと思います。
麓に下りて大盛りラーメンと餃子を食べて、満腹満足の一日でした。

大阪の能勢の若手百姓たち(20才代半ば)を関君と訪ねていった時は、朝までガチンコライブの激しいやりとりがありました。
原田君、永田君、尾崎君、山田君は流通を否定し、消費者との直接やりとりを勧めている日本有機農業研究会のメンバーでした。
4人が手ぐすねひいて待っていたのがよく伝わってくる雰囲気でした。開口一番「東京モンが何しにきたんだよ!」「おまえら、有機農業を食いもんにしようってわけかよ!」と先制パンチを放ってきたのです。
“しょうがねえなあ、今日の話しはなしにして、やるしかねえか”と腹をくくったのです。
「おれは北海道育ちで、関はコテコテの関西人だよ。出目を言って何かあんのかよ」
「おまえら消費者にどうやって届けてんだよ。1パック2000円?!それってちゃんと計算してんだろ。大根150円位、キャベツ130円って、それって商売してるってことだろ」
「カネじゃなくて意味を、商品じゃなくて命の糧をって、キレイ事言ってんじゃねえよ」
「消費者だって先生やったり銀行員やったり稼いだ金で買ってんだよ。稼ぐため仕事してんだよ。農業は仕事じゃねえのかよ」
「ようするに、おまえら百姓の気持ちをわかって畑とつき合ってほしいってことだろ。おれたちはそういう流通と販売をやりたいんだよ。それにはどういうルールでやったらいいか話しにきてんだよ」
完全にヒートアップしてしまったぼくに、関君は「そら言いすぎですワ」「まあまあ、お互いそんなにツッパらんと」「どないしましょってところにいきましょうや」とコントロールしてくれました。
夜も更け、酒も出てクールダウンしはじめ、各々家族のこと、学生時代のこと、百姓のこと、八百屋のことなどを話していると、外は明るんでいたのです。
原田君が「オレ、こいつらとやってみるワ」と言い、椎茸栽培をやっている山田君は「オレも八百屋やってみようかな。椎茸も直売できるし」と言いだしたのです。
関西で1軒、また1軒と八百屋や百姓が拡がっていったのです。

それ故、

荒田君の「現場に戻ろう!イシを交流の場に!」という提案を受け入れることはできなかったのです。
自主性、任意性だけの運営は破綻しており、自主農場への返済を含む費用は70万/月と想定の2倍で、早急の対応が求められていました。
マッタナシの改変が求められていました。

あひるの家新店舗の改装を、プロジェクト・イシ・ファクトリー部門鈴木組がすすめていました。
2Fはフリースクール「あひるの学校」として利用するつもりでした。
8月新店舗オープンを前に、6人のうち4人が次のステップに旅立っていきました。ぼくと武重君だけが残ることになったのです。
“八百屋募集”を貼り出すと、何人もの応募がありました。0才と2才の子持ちの淳ちゃんと、4才の子持ちのマリさんをまっさきに採用しました。国立で暮らし子育てをしている人たちと、もっとスローな八百屋をやりたいと思っていました。
他に、長野ふじみ野で『てんとう虫農園』をやっている大西君は出稼ぎ&勉強ということで加わり、空手家でもあったので手首足首に鉄アレイをはめリヤカー八百屋をやり、夜はJACの集荷配送業務をやって2Fスペースで寝るという、超人的な体力の持ち主でした。
百姓志願の大坂君と単身者のトシちゃんも加わりました。スローな八百屋のイメージとは異なり、ぼくの子供たち(2才・小1・小2)も含め、誰かの子供の具合が悪い日が多く、「今日は誰が店出られる」状態でした。
2Fの「あひるの学校」は、ラマーズ法の草分け三森さんの「産婆の学校」以外何も企画できず、レンタルスペースになってしまいました。
そんな時、「自然食レストランをやりたい」と、若い女性が訪ねてきました。「いろいろ探したんだけどなかなかないし、お金も高くて」と困り気味。
「じゃあ、西のあひるの家の店でやる?あひるがレストランやると言えば敷金なんかいらないし」ということで、あひるの撤収後『ライスランド』という自然食レストランを始めたのは、川瀬佳恵さん(22才・現SAP)でした。
大変な期待(債券の購入)と借金を負った訳だから、本来腰を据えて商売に集中すべきなのに、日々をうっちゃることで精一杯の日々が繰り返されるのでした。

プロジェクト・イシとJACの代表になったのは吉川君です。
荒田君が立案タイプで、吉川君はそれを現実にしていく関係でした。誰の話しにも耳を傾け、身を粉にして働く姿は、ぼくをはじめ皆の絶大な信頼をかちえていました。
プロジェクト・イシは“有機流通センター構想”を打ち出したのです。

各地域に有機流通センターを設立し、地域における有機生産物の生産-流通販売-消費の環を作り出し、地域間のネットワークを結ぶことで、地域における需要と供給のアンバランスを是正し、全国的な有機農業の発展をサポートしていこう。

というものです。
既に関西でも埼玉でも北海道でも胎動しはじめていました。
イシの運営は参加・賛同・非加入を各グループに選んでもらって、それに応じて会費や関わり方を決定しました。全グループは50グループで、参加グループは約半数で、会費は150%UPの165万円になったのです。
当面の危機は脱したのです。
関西をはじめ有機流通センターの設立が緊急の課題となっていました。

1983年
4月1日 有機流通センターJAC埼玉設立
4月1日 有機農産物生産流通センターJAC茨城設立
6月1日 有機流通センターJAC関西設立
9月1日 有機流通センターJAC北海道設立

各地域では設立に向け準備が進められていきました。ぼくは「当分の間イシとの調整役が必要」ということで、JAC関西センターの代表の役を担うことになった。
そして、これからの拡がりを生産者・製造者・八百屋・消費者と共有していくために、プロジェクト・イシ5周年を記念して全国大会を催そうということが全体会で決定されるのでした。
2日間に亘る催しには、のべ1200人が参加しました。
生産者や製造者、東京以外の八百屋たちにとって、「こんなたくさんの仲間や応援してくれる人がいるんだということが感じられ、これからの仕事の活力になった」との声が届けられました。

道につづく道ができたとはとても思えず、前に道はあるように思えるけど後ろの道は定かではない、という歳月だったように思えます。
「おれたち、つま先だってる感じだけど、つま先だけど地についてるんだよね」という、仲間が呟いた言葉が印象深かったのです。