Category Archives: あひるの家の冒険物語

のらぼう主茎

神奈川愛川・北原くんから、暖冬でもう少ししたら旬を迎える【のらぼう】の第一弾【のらぼう主茎】が届きました。
【のらぼう】は昔から西多摩地方で栽培されていたアブラナ科葉野菜で、春先に旬を迎える【菜花】の一種です
小松菜やチンゲン菜・白菜に大根など、「菜花」と呼ばれる葉野菜はたくさんありますが【のらぼう】もその一種で、伸びた脇芽と花芽を食用とします。
他の菜花より特有の苦みが少なく、茎の部分はほんのり甘みがありアスパラガスのようなコリッとした食感が特長です。
あひるの家でも2月~3月に出てくる北原くんの【のらぼう】は毎年大人気なのですが、本日届いたのはその【のらぼう】の「主茎」と呼ばれる部分。
脇芽を食す【のらぼう】は、本来なら太くて硬い主茎はかき落し脇芽に栄養が回るように栽培するのですが、収穫時期前のこの一回目の主茎だけは北原祥ちゃんが言うには「別物」だそうです。
その太くて硬そうな見た目とは違い、まだ脇芽に栄養を取られていない主茎はやわらかく、春を感じるほんのりとした甘さです。
アクやクセはないのでそのままおひたし、野菜炒めやバター焼き、マヨネーズ和え、味噌汁、天ぷらなど、用途を選ばず様々な料理に使えます。
この「トウ立ち第一弾」の【のらぼう主茎】が食べられるのはわずかな期間だけ。北原くんの【のらぼう】ファンの方はお見逃しなく。

好評「やってます」シリーズ(あひる通信1.19号より)

あひるの家フェイスブックやってます

そろそろ中生種(なかて)・晩生種(おくて)が出てきて店頭がオレンジ色一色になる柑橘天国の季節がやってきます。ところで先日入荷した【有機はっさく】 をFBで上下逆さまにして「あばれはっさく」ってあげたのですが、意味わかんない人が多かったら、あまりのバカさかげんにスタッフA情けなくて涙でてくらぁ~! https://www.facebook.com/AhirunoieKunitachi/

あひるの家自家製ぬか漬け好評販売中

あひるの家自家製【ぬか漬け】ファンのみなさま、お正月7日間はいかがされていましたか。まあ、ごちそう続きの松の内には【ぬか漬け】なんかが食卓に入りこむすき間もなかったでしょうが、そろそろ疲れた胃腸を乳酸菌のパワーで労わってあげませんか。今年も大根・人参・きゅうりのゴールデントリオを中心に、あひるのウマイ野菜を漬けまくりますよ~

雨の日スタンプ2倍サービスやってます

雨はほとんど降らない年末年始でしたが、暦的には大寒を控え、さて今年の1月2月、降雪はあるのでしょうか。雪が降ったらスタンプは何倍?通常1,000円お買い上げ毎に1個押印するあひるスタンプを、雨が降ったら2倍押印。なんと500円お買い上げで1個押印、1,000円で2個、1,500円で3個… 雨天時だけのお得なサービスやってます!

夏野菜人気ナンバーワン 田島さんのトマト【麗夏】はじまりました

おいしい野菜、美しい畑をつくることで定評のある栃木鹿沼・田島穣さんから今シーズンの有機トマト【麗夏(れいか)】の出荷がはじまりました。
樹上でしっかり赤く熟させてから出荷しても、あひるに届いた時にも実がしっかりとして、甘酸っぱくて、いかにもトマトらしい味と香り。実が詰まってズッシリ重い、水に沈むトマトです。
「食べた後にエグミが口に残るのが一番嫌い」というのが田島さんのこだわり。言葉通り、ガブリと食べた後も後味スッキリ。
これから真夏日、猛暑日がやってくる7月8月。ヒンヤリ冷したトマトにちょっと塩をふっておやつがわりにガブリ、生き返ります。
夏の八百屋の腕の見せ所【有機トマト】は今日もあひるの店先で元気に並んでいます。

カタログにはないもう一つののし餅 鈴木章さんの【お正月用のし餅】

【章さんののし餅・白米】【章さんののし餅・玄米】 各 25cm×30cm 約1.5kg 2,106円

毎年大好評、栃木鹿沼・鈴木章さんの自家用もち米で作る【お正月用のし餅】。
ポランのお正月用品カタログに載っている中村商店ののし餅よりも大きく重く、なにより前日搗きたてが届くのでやわらかい。
「ほんのりお米の香りがして、かむほどに甘味が口の中にひろがって、鮮度のいいお餅ってこんなにおいしいんだ」と感動の味です。
なぜか毎年12月30日に予約が集中する【のし餅】。昨年も50枚近くの【のし餅】を30日に送ってもらいましたが、章さんももういいお年。年末の寒い時季に餅を搗いては発送する重労働は大丈夫なんでしょうか?
「昨年くらいだったら何とかなるさ~。でも今年で最後だぜ」
たしか昨年の今ごろもおんなじことを聞いたような……。
【のし餅】をご注文のお客さま、できればお渡し日は早めにしてもらって、章さんに体力を温存してもらえると来年にもつながるかもしれませんよ。

■お渡し期間:12月26日(月)~30日(金) 4日前までに、スタッフまで直接ご予約ください

『あひるの家の冒険物語』 第17話 最終章 ―あひるの家は続くけど『冒険物語』は終わります―

―読んでいただきありがとうございました―

あひるの家が始まって10年を迎えたところで『あひるの家の冒険物語』を終わりにしたいと思います。
今現在までその後30年余りあり、皆さんに知っていただきたいエピソードもたくさんあるのですが、どうしても記録的・説明的になってしまい、「社史」を記しているようで、時間の記憶に耽るワクワク感が持てそうにないのです。
「あひるってどうして始めたの?」というお客さんやスタッフの声がきっかけで、「そうだ、40年も経ったし、惚けるのももうすぐそうなので」と記しはじめたのです。
休みの日に数少ない資料や写真を引っぱりだして書きはじめるのです。1話書くのに10時間位かかりました。その半分の時間は、コーヒーを飲みながら「あの日、あの事、あの人」に思いを巡らすのです。
あの路地をリヤカーを引いて曲がった時の不安な心持ちや、プロジェクト・イシ採決会議のため国分寺北口のバス通りを歩いていた時の逃げだしたい気持ちや、ポラン広場全国大会の夜早稲田奉仕園で星を見ながら流した涙のあたたかさや、店先のテーブルに並べたまかない飯のホッケの香ばしい匂いや・・・・・・
まるで1枚1枚の日めくりをめくっているようでした。甦る「あの時」に浸れた至福の時間でした。

―それから30年が経ちました―

ポラン広場ネットワークⅠ ―ポラン広場ネットワークを全国へ!― 1983~1994

★ポラン広場が東京・埼玉・関西・北海道に続いて名古屋・九州・栃木・神奈川に発足する
(地域に有機農業の環をひろげる)

★ポラン広場に参加する流通販売グループは70グループを数え、その売上げ総額は50億円を超える
(ポランのほかに神はなし)

★ポラン広場の宅配を巡って10販売グループが脱退
(八百屋のポラン広場は終わった)

★1986年『ばななぼうと』をきっかけに、大地を守る会・グリーンコープ(九州)・生活クラブ生協・リサイクル運動市民の会・らでぃっしゅぼーやなどと『DEBANDA』協議会を発足させる
(学生時代被っていたヘルメットの色がわかるリーダーたちだった)

★『韓国自然農業中央会』との交流がはじまる。「軍事→民主」への政権移行期、若者たちが仕事や学業を辞して、「農業天下大基」を掲げる『自農会』に加わっていったソウルで『自然宅配』をスタートさせる
(詩人・金芝河を語った時の涙は60年安保の時の若者たちのようで、熱く清々しいものでした)

ぼくは「ポラン広場ネットワークを全国へ!」のポジション(ポラン広場全国事務局)を関君(関西・ビオマーケット)とともに20年余り担わせてもらいました。
地域ポラン広場の発足や流通販売グループの立ち上げなどに関わったり、ポラン広場のテーブルづくりを運営したり、生産者の作物別会議(トマト・りんご・みかん……)をサポートしたり、東へ!西へ!駆け巡る日々でした。
「ネットワーク型集団」というのは先例がなかったので、物事を決めるにも決め方の方法を発見していかなくてはなりませんでした。
「テーブルに権威をおく」「反論する関係を大切にする」「決定しないということを決定する」「他人という鏡を磨く」・・・、次のレールを継ぐために言葉があみ出されていったのです。
「オレが、わたしが、ポランだ!」と思うだけで、力が漲ってくるように思えた時代でした。

ポラン広場ネットワークⅡ ―分解・凍結するネットワーク― 1995~現在

★東京流通センター(株)夢市場がネットワークから離脱。『マザーズ』ブランドでデパ地下などでテナント販売を展開する。
国立にも販売店をオープン、昨年末閉店。2017年夏、(株)夢市場倒産、『マザーズ』売却。
(有機食品の新しいマーケットを拡げたが、継続ならなかった)

★九州流通センター(株)オーネット倒産 ―ビオマーケットがポラン広場の宅配を開始する―
(あひるの家の久木原君・東元君・鈴木君の3人が移住して立ち上げたのだけど、販売がひろがらず、2年程で断念。ほぼ戦わずに敗れた状態だった)

★名古屋流通センター(株)ポカラ倒産 ―ビオマーケットが流通販売事業を継続―
(自社ビルを建てたり隆盛を誇っていたのだけど、台風による浸水の影響が大きく、断念した)

★関西流通センター(株)ビオマーケットと埼玉流通センター(株)ECOが合併し、首都圏でのスーパー・デパートへの卸しを開始する
(地域主体のネットワークが崩壊する。(株)ECO取り引きを主にしていた生産者の不安が広がる)

★ポラン広場ネットワークが停止。以降、フリーズした状態が続く
(ともに囲むテーブルが消滅。個別事業体としてやっていく)

★北海道流通センター(株)HAVE札幌市場代表の笛木君自死。HAVE札幌市場、ポラン広場北海道から離脱
(笛木君はこちらに来るとぼくの家に泊まっていました。東スポとアサヒ芸能の愛読者で、エロイ記事は子供たちに見せられるものではありません。自死の理由は定かではありませんでした)

★2016年秋、(株)ビオマーケットが京阪電鉄グループの傘下に入り、関君は代表権のない会長に就任する
(経営の好転が見通せない中、事業の継続と社員の身分確保、生産者との安定的取り引きを考え、売却を決断したのだと思います。初め不安がっていた生産者から、「関の決断は正しかった」の安堵の声がきこえてくるようになりました)

★販売グループの廃業が続いています。70グループあった販売グループは20位になりました
(続く経営状態の悪化、自身の高齢化、継いでくれる者がいない、小さなオーガニックマーケットのパイの取り合い…、とても、とても淋しい限りです)

それからのあひるの家は…… 1988~現在

★昭島市東中神に新店舗をオープン。あひるの家の宅配を開始
(青梅・KIVAが羽村店を、阿佐ヶ谷・結が早稲田通り店をと、各グループが競うように広がりをつくっていきました。あひるの家のスタッフはアルバイトを含めて15名程になり、月売上げは1300万円位になっていました)

★阿佐ヶ谷・結と合併して(株)CUEを設立
(4店舗・1宅配・1レストラン・スタッフ20数名・月売上げ2100万円。給与・手当・休暇など労働改善を優先し、全体ミーティングで決定していきました。大幅な経費の拡大は、売上げの伸張を期待してのことでした)

★中神店・早稲田通り店を閉店
(2000年に入り、売上げの伸びがとまり、減少に向かっていきました。2店舗を閉め、経費削減をはかっていきました。わずか2年余りの展開でした。その頃、あひるの家のスタッフ3名が九州の新展開へ向け、結の3名が退職していきました)

★(株)CUE解散
(何も為し得ないまま3年で幕を下ろしました。つくづく、ぼくは代表者にはなれても、経営者にはなれないんだということが身にしみてわかったのです)

★ジャックと豆の木閉店
(料理の評価は高かったのですが、経営的には難しく、八百屋さんの稼ぎをつぎこんできたのですが、それもかなわなくなったのです)

★(有)あひるの家はじまる
(1店舗・久美さん、長坂君、朱君、ぼくの4人スタッフの再スタートになりました。何ができる?何がしたい?)

★店舗改装
(キタナイ!アブナイ!あひるの家と言われていたので、何よりもスタッフが行きたい店、いたい店にしようということで、光風林スタッフと設計施工のお手伝いをさせてもらいながら、お気に入りができたのです)

★販売イベントはじまる
(青梅・小山製菓の店頭みたらし団子焼きをきっかけに、毎週末生産者・製造者・メーカースタッフなどが店頭直売をはじめる。この頃、たいやきやゆいもはじまり、「たいやき100年」ということもあって、週2回お客さんがむらがっていました。魚屋さん海野君の店頭うなぎ焼きも大好評で、「今週はなに?」とお客さんも楽しみにしてくれました。販売イベントスタッフもお客さんと直接話せたり、もしかしたら業界で噂になっているという「朱君のまかない飯はウマイ!」を楽しみにしていたようです)

★あひるの学校を開校しました
(生活をもっと楽しもう!ということで里夏ちゃん円ちゃんの2人が担当。2ヶ月に1度位の割合で開校。味噌づくり、豆腐づくり、パン作り、料理教室、畑収穫祭・・・・・・、お客さんとワイワイ言いながら作ったり食べたりのワークショップをドンドンいきます)

★直送野菜・果物にシフトする
(販売イベントなどで顔なじみになった方もいらして、「北原君の野菜おいしいわね」「章さんのお米ちょうだい」「井場さんのみかんは小粒だけど味が濃い」と、名指しで購入してくれるお客さんもふえています。あひるの家は物売りじゃなくて人売り(?)をしたいのですから、これからも人→物→金の順番でつながりをつくっていきます)

★(有)あひるの家の代表が交代しました
(2018年3月、朱君が代表になりました。朱君、里夏ちゃん、円ちゃんによる新しいステージで、久美さんとぼくはサポート役になります。新たに雇用されたぼくに、「70才になっても働けるところがあるなんて、有難いと思わなくちゃ」と、長いつき合いの税理士さんに言われた時はムカッ!ときたのですが、しばらくすると「そうだね」と思ったのです)

これでおしまいです。
同時代を過ごした人達に会いたいという想いがつのっています。
3日3晩ホテルを借り切って、いつ来てもいいし、いつ帰ってもいいし、誰と話してもいいし、話さないで部屋に居てもいいし、マイクを1本用意しておいて今のことを話してもいいし、あの頃のことを話してもいいし・・・・・・、そう、陽だまりの公園の「広場」のような集いができたらと妄想しています。
自らに語り継ぐ物語があったと思っています。
「広場」は実現できそうにありませんが、『冒険物語』を書くことでそう思えたことを嬉しく思います。
読んでくださり本当にありがとうございました。今度はお店でお会いしましょう。

 

『あひるの家の冒険物語』 第16話  時代がおわり、時代ははじまる ―その1―

国立桃正飯店2階大宴会場に50名程が集いました。
“あひるの家10周年記念パーティー”が始まろうとしています。
集まったのはポラン広場の八百屋たち20名と、大地を守る会から藤田会長や徳江さん、天内さんなど提携グループの人たち10名、そしてあひるの家のお客さんが15名程でした。
お招きしたお客さんは、あひるの家スタッフ各人がリストアップした人たちです。ぼくは3名のお客さんの名を挙げました。
1人目は相さんです。
1977.9.5 リヤカー八百屋初日は、朝から雨が降りつづいていました。リヤカーを覆う赤いテントはまだ届いていなくて、庭先にあったゴザを掛けて出発したのです。
5軒ほど回って国立学園の前を通りかかったのは昼頃でした。この後連絡をもらっていたのは3軒で、時間があり余っていました。積んでいた野菜は濡れはじめ、雨具を用意していなかったので服もジーンズもビショ濡れで、重く体にまとわりついていました。「どうしたらいいんだろう」、気持ちはすっかり萎えていました。
向こうから傘をさしたご夫婦がやってきて眼が合ったのです。
「あなた、何やってるの?」と声を掛けてくれ、「あの角を曲がったところだから、今度寄りなさい」と言ってくれました。
相さんのお宅には月曜日と木曜日にお伺いしました。
相さんがいらっしゃらない時は、同年代の姉妹の方が出てきました。2人ともそれはそれは美しい人で、聡明で、弾ける笑い声の素敵な人たちで、いつも30分間程話しをするのがとっても楽しみだったのです。
2人目は田坂のばあちゃんでした。
旭通りに出店を出していた頃からよく顔を出してくれていて、スタッフとしちゃんに着なくなった服を手直ししてプレゼントしてくれたり、裁縫を教えてくれたりしていました。
ある日、店のレジに何人か並んでいる時、後ろの人の顔を見て、「あんた、テレビに出てたことがあるでしょう」と声かけたのです。
「ええ、以前」と戸惑いながら応えると、「そうかい、最近みなくなったねえ」と、話しかけるのをやめました。田坂のばあちゃんは、「売れなくなってテレビに出なくなったんだろう。カワイソウに」と思ったんだと思います。
でも、お客さんで元歌手の百瀬さんは“絶頂期に引退したんだけどなあ”と思ったものでした。
「あんた、そろそろヒゲをそっても八百屋できるんじゃないの」と言ってくれた田坂のばあちゃんの言葉は印象的でした。
3人目は松下さんです。
その頃、大学の先生になりたての松下さんは独り身でした。毎日のように店に寄って、お茶を飲んだりお喋りしていきました。
『ジャックと豆の木』がオープンする時は、スタッフ大森君と合羽橋に行って、鍋・フライパン・食器などを買い出しに行ったりしてくれました。
スタッフの個人的な悩みをきいたり、自分の恋の悩みを打ちあけたり、飲みに行ったり、イベント企画を一緒に練ったり、年末商戦の12月26日~31日まで毎夕顔を出して「どう、今日売れた?」と店内を見回し、売れ残りそうな物を買っていきました。
20名程の友人が集まっての結婚披露宴を『ジャックと豆の木』で催し、歓びと誇らしさで“松ちゃん”の表情は輝いていました。
松下さんはあひるの家の最良のパートナーとして歩んでくれた人です。
「10年でパーティーって早くないですか。30周年記念パーティーを楽しみにしています」という北千住『椿屋』村上君の激励の言葉や、「リヤカーの頃からそばにいて、今度は折れる、今度は駄目かなと思わせることが何回もあったのですが、そうなりませんでした。思うに、例えば綱引きをしていて膠着状態になって袋小路ダと頭をかかえている時、いつの間にか狩野さんは玉入れをやっているのです。そっちの方が面白そうなのです。つくづくネットワークはフットワークだと思うのです」という流通センター『夢市場』の小野田さんの述懐や、大地の藤田さんから「ポラン広場は目の中にできたグリグリみたいに気になるうっとうしい存在でした。この2~3年ご一緒することも多くなり、グリグリもとれて視界良好になりました。これからも力を合わせて有機農業を広げていきましょう」というメッセージをいただいたりしました。
にぎやかに、華やかに10周年パーティーの夜は更けていきました。

“あひるの家10周年記念イベント”が次々と催されていったのです。
その頃、大地を守る会を通じて知り合いになった河合さんの静岡内浦漁協への“とれたて鮮魚買い物バスツアー”や、前日からあひるスタッフが泊まりこんで、早朝あがった魚を大漁旗をなびかせながら持って来て、店の隣の会社のスペースをお借りして“直送!魚大卸売会”を催したりしました。鮮度のいい魚のエラは刃物のように鋭く、掌が血だらけになったりしました。
夏にはバスをチャーターして、群馬鬼押し出しキャンプ場に一泊。翌日は北軽井沢石田農園での農業体験など“サマーキャンプ”を催し、味噌づくり、パンづくり、餅つき、ティーパーティーと目白押しでした。
そして、「集客力のあるスーパーなどの近くで、角地単独スペースで駅のそば」と条件に見合った新店舗を、青梅線東中神にオープンすることにしました。
同時に、これまでの店舗販売配達、移動販売に加え、新たな販売チャンネルとして注文販売(宅配)をはじめることにし、新店舗2階の1室を借り、パソコンを導入し事務所を設けることにしたのです。
この頃、八百屋開業希望者が毎月のように訪ねてきました。その多くは脱サラご夫婦でした。
「お店をやるにはどの位かかりますか?」「どの位売れているんですか?」「子供2人いて月30万円位かかるんだけど」「お客さんはどうやって見つけたんですか?」「セールストークのポイントってあるんですか?」「高い高いって言われてるけど、どの位高いんですか?」「ポラン広場はどんなサポートしてくれるんですか?」「夫婦でうまくやっていける秘訣は?」・・・・・・・・・・・・
どう応えたらいいのかわからないことも多かったり、始めてみないとわからないこともあるのだけど、あひるの家や他の八百屋たちの例をあげて、開店費用、働き方や給料、野菜の値段の仕組みや、これまでだいたい1年目200万円/月で年を追うごとに100万円位ずつ売上げがあがり、粗利益は23%~25%位だから、それを目安に事業計画や家計の目安を考えてみたらどうだろうか、といった話しをしました。
八百屋開業希望者が帰られた後には、ぼくはいつも小さな苛立ちを感じていました。
「見る前に跳んでみたら」「レールは1本ずつしかつながらないんだから」「自分の答えを見つけないと」など、何度も出かかった言葉を飲みこんだからでした。
でも、考えてみたら、新しいことを始めようという時、不安要素を一つずつ潰してから決断しようとするのは当たり前のことです。ということは、“この八百屋の仕事”が仕事選びの1つになっているということなのです。10年前とも5年前とも違うのです。
話しをした3分の1が開業し、3分の2が断念しました。尋くと、開業決断はおかあちゃんがしたところが多かったようです。
あひるの家を人も羨む仕事場にしよう、と改めて思ったものです。
“半分は、あひるスタッフのため。半分は、これから出会う人のため”
内に向かっていたベクトルの矢は、外へ外へと放たれようとしているのでした。

『あひるの家の冒険物語』 第15話  極北の大地にポランの旗をおったてる ―ともかく始めよう!―

―ポラン広場北海道発足―

1986年4月、千歳空港から室蘭本線に乗り東室蘭駅で降りました。
積もっていた雪が溶けはじめていて、歩くたびに足元には黒々とした土が顔を出し、むせかえるような土の香りが立ちのぼってきたのです。
「春だ、ついに春がきた」と、メモを見ながら歩いていった先にその店がありました。店先で猪狩君が待っていてくれました。
「いやぁー、ごくろうさんです。実は困った事が起こってんですよ」とニヤニヤしながら、まだ何も内装されていない店の中に入っていきました。
店の奥から女の人が出てきて、「わたしは何もきいていないからね。話すなら店の外でしてね!」とえらい剣幕で外に追いだされたのです。
店の外で立ち話しといっても寒いので、2階の猪狩君の部屋にあがらせてもらいました。
「いやぁ~、朝から大荒れですよ。包丁は飛ぶわ皿は割れるわ、命がけですよ。イヒヒヒ」と、前歯が1本欠けた顔で笑っているのです。「サァ、あんたのお手並み拝見」と言っているようです。
猪狩君はポラン広場の八百屋『蟹屋』のスタッフとして川崎で働いていて、富盛さん(女の人)は横浜で反原発や自然保護の活動をしていて、その中で知り合った仲だそうです。富盛さんが地元に帰って自然食品店を開くので手伝ってほしいと言われ、やってきたということです。
「どうせならポランのネットワークの八百屋の方が面白いんじゃねえの」と連絡してきたのですが、富盛さんの説得・同意ができていなかったのです。
その夜は富盛さんのお宅に泊めてもらうことになりました。
「よく東京から」と、お母さんがテーブルいっぱいの料理を作ってくれ、お風呂もよばれたのですが、富盛さんは顔を出しません。ぼくは、いつ「出てってよ」と言われるか落ち着かないのです。
「保枝~、失礼でしょ、せっかく来てくれているのに」と、お母さんが幾度か声をかけてくれ、ふくれっ面の富盛さんがテーブルについたのです。
自己紹介やポラン広場の説明をさせてもらうのだけど、ぎこちない間が続くのです。隣で猪狩君はヘラヘラニヤニヤ笑っているばかりです。
お互いの学生時代の話しになり、その頃ぼくのバイブルだった奥浩平(学生活動家・遺稿集『青春の墓標』が当時の学生の共感を得た)の話しをすると急に体をのり出し瞳を輝かせ、表情がほぐれていったのです。
道内に売ってくれる所がないから、じゃが芋・玉ねぎ・人参・南瓜の「カレーライス畑」しか作れず、「百のものを作れる百姓になりたい」と八百屋の誕生を待っている百姓のことや、従来のピラミッド型組織ではなく、フラットでパラレルで小さくて大きなネットワーク集団づくりを一緒にやっていきたい、といった話でした。
一番盛りあがったのは、札幌から高校2年で転校した時の話しでした。
住んだ所が歌舞伎町から10分のとこで、真夜中になると肌もあらわなネエチャンたちが帰ってくるのです。兄貴と2人、アパートの2階の窓を少し開けて覗くのです。「トウキョウはスゴイな~」と、16才と18才の兄弟は熱い吐息をもらしていたという話しでした。
翌朝、「ポラン広場北海道をつくっていこう」と約束して札幌へ向かったのです。5月、ポラン広場の八百屋として『ぐりんぴ~す』がオープンしたのです。
札幌では流通センター『HAVE札幌市場』をはじめようとしている滝沢君(通称“座長”)と、只今免許取得中で八百屋『らる畑』を開業予定の橋本早智子さんが待っていてくれました。
滝沢君はかつて唐十郎赤テント七人衆の一人として活躍し、今は劇団『極』の座長として道内で名高く、「脇の下に翼をもったポランという鳥をみたいから」とポラン広場に加わってきたのです。一人でリヤカー八百屋をやっていた早智子さんは、「冬場も八百屋をやりたい」とトラックで移動販売に挑戦しようとしていました。
流通センタースペースは同時に劇団『極』の稽古場にもなっており、滝沢君はじゃが芋やキャベツや醤油にかこまれたスペースに寝袋を持ちこんで寝泊りしていました。
1986年8月、ポラン広場北海道が発足しました。1センター2販売グループ計5名で、センター売上げは月120万円位、スタッフの月取り分は3万円~5万円位でした。
翌年には札幌で『わいわい』『グリーンハウスパンプキン』『りんご村』、江別で『ども』、苫小牧で『どんぐり屋』、滝川で『やなさん商会』と拡がりをつくり出していったのです。
秋冬の「カレーライス畑」の道外送りを一手に引き受けたことで、ポラン広場東京・埼玉・関西の伸びに合わせ、HAVEセンターの経営も一息つくとこまで行きついたのです。

―その頃あひるは―

北海道から戻るとあひるの家の店先には甘夏・はっさく・伊予柑・ネーブル・タンカンなどの柑橘類や、ふじりんごなどが色とりどりに並べられていました。店内から喚声がきこえてくるのです。
あひるスタッフと何故かお客さんをまじえ、ジャンケン大会がはじまっていたのです。尋くと、お客さんで国立在住の元歌手の百瀬さんのお宅に誰が配達に行くか決めているのだといいます。スタッフ折茂君が勝ったようです。
「あの~、ちょっとアパートに帰ってきていいですか。シャワー浴びて着替えてきたいんですよ。ここ3日位、久木原さんの所に泊まっていたもので」と、Tシャツをクンクンとかいでみせるのです。
配達から帰ってきた折茂君は、「お母さんしかでてこなかった」としょんぼりしていました。
この頃のスタッフは全員20才代~30才代(久美さんとぼくを除く)でした。鹿児島でバーを営んでいて、駆け落ちして国立に住みはじめた久木原君。久木原君の竹馬の友で服飾メーカーに勤めていたスタイリッシュな東元君。東元君の同僚で百姓志向(連れ合いの悦ちゃんは)、夢市場センターに勤めた清水君。サイボーグと言われる程疲れというものを知らない鈴木君。在国立、出入りしているあいだに大学4年生で中退、母に泣かれた折茂君。ジャックと豆の木の澄ちゃん、恵理ちゃん、みっちゃんも20才代前半で、アルバイトスタッフは10才代の学生も多くいました。フレキシブルでパワフルでスタイリッシュなあひるの家に一新されていきました。
お店は来店客数が200名を超える日も出てきて、狭い店内がいつもごったがえしている状態でした。月売上げが優に1000万円を超えつづけ、それとともにぼくたちがやってきた事が社会に評価されつつあるのだと、自信と確信を持ちはじめたのです。
翌年の「あひるの家10周年記念連続イベント」のプランが話しはじめられ、メインイベントは「あひるの家新店舗オープン」でした。
『ポラーノの広場』(宮沢賢治作)の最終章の「あしたも元気のでる広場」「きっとできるとおもう。なぜなら、ぼくたちは今それを考えているのだから」を胸に、極北の大地をポラン広場の仲間たちは今日も駆けつづけているのだろうし、ここあひるの家ではその一端が実現しつつあるのだと思えるのでした。

『あひるの家の冒険物語』 第14話  ある日、あひるで……

多摩川に架かる関戸橋にさしかかる頃には夜が明けはじめていました。
橋を渡って川沿いに行くと、京王線と交差する一画に流通センター『夢市場』があります。道の途中にはポラン生産センターパン工房があり、午前2時から始めていたパンも焼きあがり一息ついている様子が見てとれ、窓ごしに手を振ってくれる者もいます。
センターの敷地には既に4~5台のトラックやワゴン車が止まっており、20人程が白い息を吐き出しながら荷物の積み込みをはじめていました。
「おはよう!」「おはよう!」と声を掛けながら、空いているスペースにトラックを止めました。『自給の邑』(相模原)の高岡君や『KIVA』(青梅)の吉沢君や『源五郎』(川崎)の川井君カップルの顔もありました。夢市場スタッフの河辺君が、12本入り牛乳ケースを3箱も積みあげ軽々と運んでいます。
「遠いところを送り出そう」ということで、久木原君とぼくは源五郎の積み込みの手伝いにいくと、トラックの横で源五郎の恵さんが夢市場農産担当の遠山君に納品伝票を片手に詰め寄っているのです。
「キャベツ頼んでいないわよ。10ケもきてるじゃない。アッ!ブロッコリーもカリフラワーもまだたくさん残っているのに」
寝惚け眼(のふりをしている?)の遠山君は、「いや~、キャベツはひと雨きて割れそうだし、ブロッコリーも花咲きそうだからとっちゃうよと百姓から電話あったんですよ。いや~、困ってしまいますよね」と、のらりくらりと返事をしている。
久木原君とぼくは、「いっちゃえ」とドンドン積み込んでいく。
一緒にやっていたKIVAの吉沢君が、「キャベツ、うちで引き受けようか」と声を掛けると、「いや~、助かりますよ。寝てないんでコーヒー飲んできます」とニヤニヤしながら事務所に入っていきました。
その間も『蟹屋』(藤沢)や『じんじん』(町田)、『結』(阿佐ヶ谷)のトラックが入ってきて、敷地内はいっぱいです。
パン工房の九重さんがやってきて、「アンパンつくってみたんだけど、食べてみて」と配りはじめたのです。
機嫌を直した恵さんを乗せ源五郎のトラックが出発。「しっかり売れよ~」「仲良くやれよ~」と手を振って送り出したのです。
雨が降って晴天が続いたせいで、どの野菜も注文量を上回っていました。キャベツ20ケ→30ケ、ほうれん草30ワ→50ワ、ブロッコリー20ケ→35ケ……。「今日は豆の木にキャベツとほうれん草を使ってもらおう」などと思っていると、8時あひるの家に到着したのです。
東元君、清水君、折茂君、鈴木君、少し遅れて久美さんが待ちかまえていて、満載のトラックから荷物をおろしはじめるのです。店分、トラック引き売り分、牛乳配達便分と各々仕分けをし、コーヒーを飲みながら今日の入荷状況とポイントを確認し合うのです。
各人が準備にとりかかると、店の奥の台所で久木原君がまかない飯を作りはじめるのです。今日はカレーのようです。何故かいつも味噌汁がでてくるのです。
9時、『ジャックと豆の木』スタッフの澄ちゃんと恵理ちゃんがやってきて、キャベツとほうれん草と豚肉を使った料理を考えはじめるのです。11時半開店です。
10時半トラック引き売り、11時牛乳配達便のスタッフがカレーをかきこんで出発しました。
天気が良いのでお客さんの出足がいいようです。壁も扉もない店内には冷たい風と枯葉が吹きこんでくるのですが、カレーの香りが漂い食欲をそそります。
12時が過ぎると店の横の私道にテーブルと丸椅子が用意され、カレー、味噌汁、いわしの丸干しが並べられ、スタッフが交代で食べはじめるのです。
自転車に子供をのせたお客さんがやってきて、「おいしそうね」と笑顔、「食べていくかい?」と子供に声を掛けると「ウン!」と嬉しそう。5~6人がお喋りをしながら食べるのです。昼営業を終えた豆の木スタッフ、みっちゃんを加えた3人が降りてきて食べはじめるのです。12時~3時位まで私道を専有する毎日でした。その頃、店からの配達便もスタートしていきました。
朝積みあげられていたキャベツも大根もほうれん草もなくなりつつありました。
「キャベツ買ってくんなきゃレジ打たない」という脅しや、「お願いしますよ、明日もどんどんくるんで、夜、闇にまぎれて多摩川に捨てにいかなきゃならないんですよ、お願いします」という泣きのセールストークが功をそうしたようです。
その度にお客さんとの丁々発止で笑い声が起こり、買い物カゴにはいつのまにかキャベツが入っているという事態が続いたのです。
店内には「WHAT IS ORGANIC?」のポスターが貼られ、インフォメーションボードには「2月18日(日)新潟上越から星六味噌の星野さんがやってくる!味噌づくり教室参加者募集中!※星六さんはヘンクツですが悪い人ではありません。ただし喫煙者接近遭遇禁止です」という催しのお知らせが貼ってある。
6時を過ぎると店配達便の鈴木君が、牛乳配達便の清水君が、トラック引き売りの折茂君が戻ってきて、店の奥で売り上げを数えたり、注文を集計したりしはじめるのです。
7時閉店。久木原君が各々の売り上げと店売り上げを数えはじめ、「今日は42万円でした。よくがんばった、オシマイ!」と報告し、「今日さ、鹿児島から豚肉送られてきたんで、おれんちで食べる人?!」と声をかけると、ひとり者全員が手をあげるのです。
2Fのジャックと豆の木にあがると、常連の一橋の吉村先生や小平の養鶏家青木君や、武蔵小金井『苫屋』の畑中君の顔も見える。久木原君が「今晩来るかい?焼肉だけど」と声を掛けると、豆の木スタッフ全員が「終わってから行きま~す」と即返事。苫屋の畑中君も「行く」と表明。吉村先生も青木君も行きたそうなのだけど、言い出せない様子。
ほぼ連日、久木原君のところになだれこんで、飲んで食べて歌って泊まって、翌日店に出てくることが多いようでした。
「活気とか熱気というより、狂気漂うという感じですよね」と呟いたのはスタッフ折茂君だったけど、毎日が祭りのような日々だったのです。

『あひるの家の冒険物語』 第13話  細部に神が宿るポラン広場ネットワークを全国へ!Sec1


―海をながれる川を見に行く―

その日、ポランスタッフ4名と大地を守る会(大地)の徳江さん・西村さんの6名は、1台のワゴン車に乗って東北道を北に向かって走り出したのです。
朝食にと買ってきたパンやおむすびやコーヒーを食べたり飲んだりしながら、大地のことやポランのことを話したり、徳江さんのお父さんが窒素工場長をやっていた時育った水俣のことや、学生運動をやって刑務所で服役した時のエピソードなどを西原さんが語ったり、合い間には井上陽水の『おいで上海』や吉田拓郎の『落陽』やサザンの『いとしのエリー』などを大音量でかけ大合唱し、道中は大盛りあがりでした。
着いたのは宮城県奥松島、迎えてくれたのは180cmはあろうかという高倉健よりいい男の30才半ばの漁師二宮さんでした。
「さあ、さあ」と招き入れられた海辺の食堂の座敷には、殻付カキ・カキフライ・カキ鍋・カキのオイル焼き・酢カキなどの料理が並び、酒と焼酎の一升瓶が10本位用意されていました。
「これはヤバイ!」と体がこわばるのです。「さあ、今朝あけたばかりのヤツだから、やってください。グッとあけてバアッと食べてください!」「あっ、ありがとうございます… いただきます…」
ポランの連中を見るとチュルチュル、ズルズルとカキに食らいつき、酒をグイグイあおり、「ウマイ!ウマイ!」を連発しています。
「まいったなぁ…」と少しだけ酒を口にふくみ、カキをのみくだす。あわててテーブルを見回し、キュウリと白菜の漬物に手を伸ばす。ついでに味噌汁をのむと、なんとカキが顔をみせたではないか。急いで店の外に出たとたん、吐き出してしまったのです。海で顔を洗い口をすすいでも、100年ものの汚水を飲んだような臭いが口中に広がり、涙目になりながら、「カキなんか、酒なんか大キライだ!」とうめきながら海辺を歩いていたのです。
座敷に戻ると二宮さんが、「明日はオレのカキ場に連れていくからな。よーし、飲みにいくぞー」と声を張りあげているのです。連れていかれたのは少し大き目のカラオケスナックでした。
肌もあらわなネエちゃんが隣に座り、「えーっ、飲めないの。じゃあ歌おうよ」「いや、唄うのはどうも…」「うっそぉー、じゃあダンスしよう」「いや、踊ったことないもので…」「ダイジォーブ、わたしがリードしてあげるから」体を密着させて、ただ揺れているだけです。耳元でネエちゃんが「今夜どこに泊まるの?」とささやき、指先に股間にはわせてくるのです。体は反応するのですが、先程のカキショックで気が乗らないのです。
席に戻ると西原さんが、「代表の番だよ。ホレホレ」とはやしたてる。
「じゃあ、えーと、琵琶湖周航の歌を歌います」いっぺんに座が白け、この日は解散となったのです。
翌早朝、雹雨の中震えながら揺れながら小舟で沖合50メートル位のところまでいったのです。
「海が盛りあがっているだろ。川が流れこんでるんだよ。こういうところが最高の漁場なんだよ。だからうめえんだよ、おれのカキは」
「海を流れる川か」と、蛇が体をくねらせているような海面を見ていると、二宮さんが「さあ、どんどん食ってくれ。酒もあっから」と網をたぐりよせ、カキを手渡してくれる。ぼくは船頭の二宮さんの背に座り、回ってくるカキをどんどん海に捨てたのでした。「あ~あ、終わった」と船を降りたら、「オレの加工場案内すっから」と3人のおばさんたちが薪ストーブにカキをのせて待っていてくれたのです。
帰路、2日間にわたる“酒とカキの日々”にうちのめされ、後部座席で寝込んでしまったのでした。
このように、大地とポランは産地を分かち合う関係を築いていったのです。ともにこの仕事をして10年余りが経とうとしていました。次のステージへのステップアップ・スケールアップが求められていたのです。
大地は“大地と海の連合構想”を掲げ、ポランは“ネットワークの開国開城”を掲げつつあったのです。大地は海産物・畜産物を紹介し、ポランは農産物・加工品を紹介し、ともに生産者・製造者を応援する協力関係をつくっていったのです。あひるの家の冷蔵棚には、牛乳・ヨーグルト・生クリーム(静岡・丹那)、豚肉・ハム(埼玉・入間)、ちくわ・カマボコ(宮城・塩釜)、牛肉(盛岡・山形村)、干物(静岡・内浦漁協)などが並べられ、売上げが急上昇していくのでした。
発足間もないポラン広場が急速な伸張を果たせたのは、大地のサポートに因るものだったのだと思うのです。

―あれから1年、わたしたちは…―

1985年3月第2回ポラン広場全国大会が吉祥寺の武蔵野公会堂で催されました。350名定員の会場は、座り切れないほどの熱気に包まれていたのです。“はじまる”“元気がでる”“勢いがでる”そんなことを予感させるものでした。
百姓たちも北海道~九州まで70名程が集まり、畜産・水産・加工にたずさわる人も50名程になり、この間全面的なサポートをしてくれた大地を守る会から藤田会長をはじめ10名程がかけつけてくれ、一般来場者は200名程でした。
前夜から泊まりこんでいた関西・埼玉・東京のポランスタッフ50名は、交流会の飲食の準備や宿泊先との連絡や来場者の案内などを弾むようにこなし、満面の微笑を浮かべていました。
ステージには「細部に神が宿るポラン広場ネットワークを全国へ!」と記された横断幕が掲げられていました。
第Ⅰ部 大野和興さん(農学者)「有機農業の未来は」
金子郁容さん(一橋大学助教授)「未定」
第Ⅱ部 生産者の紹介・会場での車座トーク
大野さんの話しが終わっても、金子さんが到着していないのです。
10分程して会場通路から壇上にかけ上がってきた金子さんは、ジージャンに白のスニーカー、レイバンのサングラスに両手にはハンバーガーとコーラというスタイルでした。
「すみません、遅くなっちゃって。授業が長引いちゃって、車とばしてきたんですけど。あっ、食事してないもんで、食べてもいいですか」と食べはじめたのです。
金子さんとの出会いは、増田書店で見つけた『ネットワーキングへの招待』(中公新書)という本でした。一橋大学に連絡し、つないでもらって、ジャックと豆の木で会ったのです。15年余りアメリカで大学生活を送っていた金子さんは日本語がたどたどしく、ぼくは英語がたどたどしいなんてもんじゃないので、なかなか会話が進みません。それでも、ネットワークの真髄のようなヒントをたくさんもらいました。
基本ベジタリアンの金子さんは、学生をつれてジャックと豆の木によく食べにきてくれました。本の出版を契機に「ネットワーク新時代の旗手」としてテレビ・新聞で注目され、その中でポラン広場のことも紹介してくれたりしていました。
そんな金子さんをみんなにも知ってもらいたいとお呼びしたのです。
ところが、会場の人達やポランのスタッフの多くが嫌悪の感情を抱いたことが伝わってくるのです。
「ヤベエなこれは。金子さん、やりすぎだよ」とオロオロしたのです。食べおえた金子さんは、
「今の社会で解決できない問題が3つあります。環境・医療・教育です。いずれも人間が主に関わっている事柄です」
「何故解決できないと思いますか?3つに共通しているのは多様性ですよね。取り組む組織に多様性がないからです。内部の質でしか外部と結べないということです」
「ピラミッド型組織の限界が言われはじめ、ネットワークがもてはやされていますが、和合と補完どまりです。ネットワークの最も大切な要素は、反論する関係をどうつくっていくか。それが最も重要なのだと思えるかどうかです」
アメリカでの様々なネットワーク活動のスタイルを紹介し、最後に「ポラン広場に期待できるかもしれないと思ったのは、さっきぼくが喋っている時も子供たちがステージに上がって走りまわっていましたよね。ポランのスタッフは当たり前のように見てましたよね。こういう文化は新しいと思いますよ。授業があるのでこれで」と、高く手をあげて壇を降りていきました。
拍手がわいたのです。ぼくたちの何かを刺激し、なによりも格好良かったのです。
休憩をはさむと、会場ではいくつもの車座ができ、生産者が持ってきたお土産を食べはじめ、お酒も持ちこまれ、集会は宴会と化していったのです。
案の定、会場管理者から「使用中止!即刻退去!」が通告されたのです。食べ物や飲み物をトラックに積み込み、宿泊所である新宿の早稲田奉仕園別棟に運び込み、30畳の部屋に100人を超す人たちの宴が続けられたのでした。
あふれた者たちは建物の外で車座になって飲み、眠たくなったらトラックの運転席に潜りこむのでした。
時はすでに2時を回っているのに、部屋の中は熱気というより狂気をはらみつつあるようでした。身体の中からいくつもの気泡が浮かんでは吸収され、また浮かんでは吸いとられていくようでした。
叫びだしそうになったぼくは外に出て生け垣に登り、満天の星を仰いだのです。月の光が凛と澄みわたり、ぼくは大きく肩を上げ、息を吸いはきだし、何度も繰り返すうちに涙がとめどなくあふれ、頬を伝わっていきました。
橙色の部屋の明かりと、聞こえてくるざわめきを眺めているうちに圧倒的な眠気がおしよせ、ぼくは底無し井戸に落ちていくように夢の中に引きずりこまれていったのでした。

『あひるの家の冒険物語』 第12話  ポラン広場に集まって! ―その2―

―ポラン広場関西発足―

「あんたらなんて呼んだおぼえはないよ!出ていけよ!」と、ポラン広場の説明に訪れた私達に退席を求めたのは、奈良の八百屋『ろ』の高橋君でした。
つづけて、「なんでセンターは勝手にポランの集まりにいったんや。みんなと話してからにすべきじゃねえか。反省しろよ」と、別の八百屋が関君に詰め寄ったのです。
「何言うてんねん」と関君は立ちあがり、「プロジェクト・イシはなくなったんや。そやから、みんなっていうもんもなくなったんやで。バラバラや。おれは地域を結び合うセンターをやりたいんや。そやから、同じ考えのポラン広場に加わったんや」
「和歌山のみかんどないするんや。他の地域で売ってくれんかったら、百姓に約束したこと守れんやないか。どうするかききたいんや」
会議は真夜中をすぎてもつづいていた。
「もう少し様子を見よう」「JACともポランとも」「関西は関西で」といった発言に対し、「そらあかんわ。やりとうないわ」と関君は退け、この会議で関西は分解したのです。
3つのグループが去り、1センター5販売グループによってポラン広場関西が発足したのです。始まってから2年もたたない関西にとって、3グループの離脱は直ちに経営の困窮をもたらしたのです。
更に、JAC関西センターから(株)BIOマーケットに名称変更するにあたって、早急に155万円をJACに返済しなくてはならなくなったのです。
更に更に、JACとの物流を断ったことでことで、全ての品物を自前で見つけ出してくるしかなくなったのです。
関君は8名の百姓に株を買ってもらい、1名をBIOマーケットの取締役になってもらうことでお金を工面したのでした。
会議の後、関君のお姉さんが営んでいるお好み焼き屋さんに行って、焼きそばやお好み焼きをたらふく食べ、その夜は店の小上がりに布団を敷いて、ポランスタッフ5人は寝たのでした。
この頃、お金がなかったこともあったのですが、訪ねて行った所に泊めてもらい、訪ねて来た人は泊まってもらい、移動も一台の車に乗り込んで、車中「どうしようか」「そうしようか」などと話しながら目的地に向かったのです。
喋ったり食べたり飲んだり寝たりすることで、お互いを隔てていると思い込んでいた気負いや気張りがなくなっていったのです。そのことが、進むしかないポラン広場創成期の最大の力の源泉だったと思うのです。

―ポラン広場埼玉発足―

埼玉でも話し合いが続けられ、何度も訪れたものでした。
日々の物流はJACから十全に行われ、もともと「七軒でも八百屋なり」とか言って、その仲の良さを自負している地域でもありました。
そんな中、JAC埼玉センターの今井君は、JACから決断を迫られていました。
何回目かの八百屋たちとの会議で、「おれはJAC埼玉出張所長になるつもりはないんだよ。全国に仲間を作っていくネットワークの一環としての埼玉センターをやっていきたいんだよ。八百屋は好きな道を選んでくれていい。おれは決めているから」と言うのですが、八百屋の多くは「埼玉は一緒に」とか「ポランの奴等はなあ」とか「JACも大変そうだから」などと言って、決断をのばしていたのです。
JACに呼び出された今井君は、日頃のポラン広場寄りの発言を詰問された後、「JACの今後について」という文章を渡されたのです。5年間に亘るプロジェクト・イシの活動を全面的に否定し、「JACは消費者の健康に奉仕する流通サービス業を目指す」と記されてあったのです。
今井君の腹は決まったのです。
JAC埼玉センターの名称を(株)地球の子供たちセンター(略称ECO)に変更し、ECO単独でポラン広場参加を表明したのです。
ただ、ECOはゆゆしき事態に直面していたのです。
売り上げナンバー2・3・4位の八百屋はJACを選びそうだし、ナンバー1の八百屋野良は高校の後輩の大崎君に店をまかせ、今井君はセンター業務に力を注いできたのです。その大崎君をはじめ5人のスタッフ全員がJAC支持だったのです。更に、センター業務の大半を担っていた高嶋君もJACを支持していたのです。
そんな中でのポラン広場参加表明は、戦わずして敗れる可能性が大きい、瀬戸際の決断でした。
今井君は八百屋野良に行き、「おれも明日から一緒に働くからね」と伝えると、「それは困る。営業妨害だ」と的外れの答えが返ってきて、誰一人目を合わせようとしませんでした。
翌朝、店に行くと5人のスタッフは居ず、顧客名簿や移動販売のコース表もなくなっていたのです。
そして数日後、八百屋野良から500メートル離れたところに、大崎君たちの八百屋がオープンしたのです。
「話しを引きのばしていたのは、この日のためだったのか」と唇をかんで頭とかきむしるしかなかったのです。
八百屋野良は連れ合いのルミさんがやり、ECOは今井君がやるという綱渡りの日々が始まったのです。
1984年10月、新しい八百屋を加え、1センター5販売グループでポラン広場埼玉が発足したのです。
夢市場からの供給を受けながら、今井君は栃木を主に生産者とのつながりを拡げていくのでした。

―先行するポラン広場東京―

八王子小比企の小杉さん、府中の田代さん、小金井の千本木さんと、地域の有機農家とつながったのです。
小杉博子さんは「有機農業をやるのが結婚の条件だったんだからね」と夫・吉巳さんにプレッシャーをかけ、寡黙な青年田代さんは牛を飼いながら畑をやり、葉物類・果菜類を主にした千本木さんは都市農業の再生を夢みる、30才~40才の熱い心を抱いた百姓ばかりでした。
茨城・常総センター、山梨・清水さん、久津間さん(果樹)、静岡・渡辺さん、色本さん、愛知・天恵グループ、北海道・蔦井さん、阪井さん・・・。その中で傑出した百姓は、静岡から40分程行った標高800メートルにある梅ヶ島村でお茶と生椎茸とワサビを栽培している依田さんでした。
その立ち振る舞いは粗野で粗暴で山猿そのものでした。「村おこし」、それが彼の信じる唯一の神話でした。
出荷の打ち合わせで夢市場にやってきた依田さんは、「おまえら、村おこしを一緒にやるって言ったよな」「なに!売れるかどうかわかんない?!そんなチャラチャラしてることきいてんじゃねえよ。やるかやらないか、返事は2つに1つに決まってんだろうが」
飲み会になり、何故かぼくはレスリングの四の地固めを極められ、「代表!おまえ村おこしやるよな!」、あまりの痛さに「やります、やります」と言ってしまったのです。
1ヶ月後、「ワサビ戦記」「椎茸戦記」がはじまったのです。
「畑とつき合う」「畑を片付ける」ことを明言し、百姓たちの信頼を得ようとした各地のポラン広場グループは、注文数とは全く無関係に出荷されてくる野菜・果物に追いまくられるのでした。
キャベツ・ほうれん草・トマト・きゅうり・桃・・・・・・あらゆる物が販売力の数倍の量で長期に続くのです。
トラックやリヤカーでの販売を新たに始めたり、終電まで駅の改札口前で売ったり、夜の闇にまぎれてあふれるトマトを捨てにいったり・・・・・・。「戦記」と呼ぶにふさわしい奮闘ぶりだったのです。
あひるの家では、一橋大学エコロジー研究会の樋口ヤス子ちゃんが後輩に声をかけてくれ、大学通り増田書店前でエコ研スタッフのトマト売りが始まったのです。トマト・きゅうり・ナス・ピーマン・・・その日たくさんきた野菜をリヤカーに積んでいって路上に並べて売るのです。
2年生の末吉さんは、声もあげられず、立ちどまった人と目線を合わせることもできないでいました。
一週間後、「まっかに熟れたトマトおいしいですよ~」「とれたて新鮮無農薬のキュウリはいかがですか~」と遠くから声がきこえ、お客さんと談笑する姿は感動的でもありました。
夕立がきたので引き上げるよう行ってみると、樹の下で雨やどりをしていて、ブラジャーが透けて見える程濡れているので「終わりにしよう」と言うと、「もうすぐやむから、もう少し売ってから帰ります」とゆずらないのです。
そして、夏も終わりかけ、トマトもきゅうりも減少し、外売りをする必要もなくなったので「末吉さん、ありがとうね。これで終わりにしようか」と言うと、涙をポロポロあふれさせながら「もう少しやりたい。牛乳でもなんでも持っていって売りたい」と訴えるのでした。

圧倒的な販売力のなさがもたらした様々な「戦記」は、各グループの販売力の底上げにつながり、百姓たちの信頼もかち得たのだと思います。
追いつめられたと思っていた私達が、実は新しい扉の前に立って、今まさに開けようとしていた1年だったと思うのです。 

※静岡の山猿こと依田健太郎さん(通称ヨダケン)の写真は、ポラン広場東京のページからお借りしました(ピンボケですみません)。