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語り継ぐ物語 第三話 ~極北の大地に有機農業の旗をおったてる~

今年も北海道富良野麓郷の阪井永典君から、南瓜・坊ちゃん南瓜・玉ねぎ・じゃが芋・赤玉ねぎが届きました。
阪井君が有機農業をはじめてから46作目になります。
富良野麓郷はあのTVドラマ『北の国から』の舞台になった所で、とても厳しい生活環境にあります。熊やキタキツネや鹿の方が住む人々よりも多い地域でもあります。
そんな中、阪井君は何故有機農業という更に困難な農業をはじめたのでしょうか?
時は1977年、秋も深まった11月にさかのぼるのです。

EpisodeⅠ ―向こうから阪井青年がやってきた―
大学通りの緑地帯で野菜を並べて売っていた時でした。駅の方から黒いニット帽をかぶった青年が駆け込んできたのです。
青年は帽子をとって「北海道のヘソ富良野から来た阪井です。八百屋やらしてください」と言い出したのです。路肩に座って話しをきくと、こういうことのようです。
「田舎の農業が嫌でこれまで2回家出(?)をして、東京のラーメン屋に住みこみで働いてボクシングジムに行ってたんです。『あしたのジョー』に憧れていたので。4回戦ボーイまでいったのだけど、アゴが弱くて断念して田舎に帰ったんですけど」
「夏にワイドショーを観ていると、この八百屋のことがとりあげられ、リヤカーに野菜を載せて街角で売り歩く映像と、ゲスト出演していた八百屋の人が“百姓は土を耕し、八百屋は街を耕す”というようなことを言っていたのです。なんだか“格好いい”と思ったんですよ。テロップが流れ連絡先があったのでメモしておいて、今日来たんです」ということでした。
阪井君22歳の秋でした。

EpisodeⅡ ―阪井青年リヤカー八百屋をはじめる―
ほぼ八百屋スタッフが占有していたアパートの空き部屋にもぐりこんだのです。翌日からリヤカーに野菜を積んで、国立の街にくり出しました。
阪井君はボクサーをやっていただけあってフットワークが軽快で、若い頃の矢沢永吉似でパワフルでスタイリッシュでした。
おまけに百姓とは思えない雄弁さと、嫌だったとはいえ農業や野菜の知識や思い入れは強いものがありました。それだもん、売れないはずがありません。
「阪井君」「エイちゃん(永典だから)」などとファンができていきました。
週末になると、今八百屋がつき合っている百姓のところへ出掛けていって、農作業を手伝わせてもらいながら、「有機農業って何ですか?」「堆肥はどうやって作るんですか?」ということなどを聴いて、農業技術だけでなく農業への心根を学んだといいます。

EpisodeⅢ ―百姓って失敗だって考えないで、また種をまくんですよ―
春3月、北の国でもそろそろ雪が溶けはじめる頃、約束通り阪井君は富良野に帰っていくことになりました。
その頃あひるの家はなかなか難しい局面を迎えていました。店舗移転の話しが出ていたのです。
移転反対3人、保留が1人、賛成私だけ、そして帰っていく阪井君でした。
1日10人前後のお客さんしか来店しない店(西区にあった)の現状に、「もう少し支持されてもいいんじゃないか」と移転を考えたのだけど、スタッフの多くが反対だったのです。
不安でいっぱいで決断できない私は、帰る阪井君に相談したのです。
「新店舗に移ったはいいけど、皆辞めたらオレ一人になっちゃうし、借金は莫大だし、どうしたらいいだろう」
「八百屋のことはよくわからないけど、百姓って前の年に日照りや冷害や台風でやられても、春が来て雪が溶けるとまた種をまくんですよ。どう防ぐか工夫はするのだけど、失敗と思わないから辞めるってならないんですよ」と阪井君。
この一言で私は移転を決断したのでした。

EpisodeⅣ ―家出をしないと約束するなら、一町歩おまえに渡すよ―
富良野に帰った阪井君にお父さんが念をおしたのです。
1941年阪井君のおじいちゃんが入植してから40年経たない農家です。11町歩の畑には南瓜・人参・玉ねぎ・じゃが芋といったカレーライス畑で、出荷先は全て農協(現JA)になります。
お父さんは「有機農業って何だかわからんが、おまえがやりたいんだったら1町歩渡すから、おまえの好きにしていい。ただし、おれの畑仕事もやることと、もう家出はするなよ」ということで、阪井君の有機農業への取り組みがはじまったのです。
3年位送られてくる少量の野菜は、小さすぎたり大きすぎたりいびつだったり、おまけにおいしくないものも多かったのです。冬場になると10年位釧路の水道屋に長期の出稼ぎに行っていました。
その頃“百姓志願者”も多く、移住者に比較的オープンだった北海道を目指す人もいました。あひるの家の店先でも何人もの人が相談に訪れ、阪井君を紹介したものでした。
1984年、流通販売グループのポラン広場北海道が発足し、札幌を主に10位の販売グループがはじまり、阪井君のところでもカレーライス畑からほうれん草・小松菜・きゅうり・トマト……と百のものを作る百姓になっていくのでした。
阪井君の家に泊めてもらった朝、「狩野さん、畑に行くけど行く?」ということで、軽四のトラックで人里離れた畑に行きました。車を降りると地面に大きな足跡がいくつもあるのです。
「あっ!これは朝歩いた跡だな。クマだよ、この辺いるんですよ。カーラジオ大音量でかけとくとこないから待ってて。畑行ってくるから」と、阪井君は行ってしまったのです。
大音量だと気配がわからないのです。クマが背後から近寄ってきてもわからないのです。車に入りロックしてひたすら阪井君が帰ってくるのを待っていました。長~い時間でした。
という恐ろしい体験もさせてもらいました。

2022年、奏太君が4代目を継承しました。
朝は5℃を下回る日もでてきているようです。阪井君の畑の前にそびえたつ富良野岳に初雪が降るのももうすぐでしょう。
畑で乾かしている玉ねぎ・じゃが芋・南瓜の取り入れに忙しい日々を過ごしているようです。

『語り継ぐ物語』 その2 王隠堂編 ~鬱蒼とした杉林を抜けると、天空の屋敷があらわれた~

奈良市内から車を走らせること2時間。
杉林の山道を行けども行けども民家の一軒も見あたらず、勿論電話ボックスなど見つかりようもないのです。
「もう帰ろうか?きっといたずら電話だったんだよ。腹へったし」
と、関西センターの関君と2人途方にくれていたのです。
「あの峠に出たら帰ろう」ということで、峠の頂に着くと、なんと広大な屋敷が出現したのです。
鳥居のような門構えの柱には「王隠堂」という大きな表札が掲げられていました。
中を覗くと奥まったところに平屋の家屋があり、庭一面に白い玉砂利が敷きつめられています。
重々しい引き戸を開けて、「スミマセ~ン、王隠堂さんいます~」と声をかけたのです。
玄関の壁には籠がつりさげられ、襖には毛筆で何やらしたためられています。
「は~い」声がして、渡り廊下を歩いてくる姿がみえました。
「政見からは伺っておりますので、柿畑にご案内します」と、モンペをはいた老女は王隠堂さんのお母さんでした。
山の中腹の柿畑では、作業着に地下足袋の王隠堂さんが、骨粉の混じった堆肥を柿の木の根元に敷きつめていました。
家への道々、梅林を通りながら「これは梅酒用、あれは梅干用ですわ」と指さしてくれるのですが、梅酒用は青いうちにとり、梅干用はそれを熟させたものと思っていたので、「そもそも木がちがうんだ」と初めて知ったのです。
家に戻ると食事が用意されていました。
素麺・山菜・川魚の天麩羅・香の物というメニューで、素麺のつゆは青竹を半分に割ったお椀でした。
「こういうのは上品にいただかなくちゃいけないんだろうな」と思いながらも、腹が減っていたので即完食でした。
屋敷の裏手の山々が一望できる縁台に座って話しをしたのです。
「王隠堂さんの敷地ってどの位あるんだい?」ときくと、腕を左から右にぐるりと回して「見えるところすべてです」と言うのです。
話しをきくと、700年余りつづく旧家で、南北朝時代に後醍醐天皇を匿ったことで「王隠堂」という名をいただいた、ということです。
「国産材の需要が激減して山仕事がなくなり、農作物も柿と梅と花梨位しか穫れないので、西吉野から若者たちがどんどん街に出ていってしまったんですわ」
「先日奈良新聞を見ていたら、『有機八百屋開店』の記事が出ていて、連絡させてもらったんですわ」
「傾斜地の多い村では、どうしても平地に比べ畑仕事も収穫量も厳しいものがあるので、何か特徴になるものがないか考えていたんですわ」
その横顔は、父親の急死で若くしてかつての大地主を継いだ並々ならぬ矜持を感じさせるものでした。
有機八百屋をはじめて3年の関君と私は32才、「西吉野を有機の里に」とチャレンジしようとしている王隠堂30才、ともに意気投合して山を下りたのです。
ふもとで食堂を見つけ、ラーメンの大盛りを食べたのは言うまでもありません。
その後、梅・柿・花梨は勿論のこと、梅ジャム・柿ジャム・花梨ジャム・梅シロップ・梅のどあめ・花梨あめ・柿チップ・柿せんべえ……と、ともに商品開発をすすめ、ポラン広場グループはこぞって販売に力を入れていったのです。
西吉野村に円型プールのような梅干の作業所をつくり、仕事をつくり出していったのです。
商品企画の半分は売れず、製造販売中止になっていくのだけど、売れ筋の商品を王隠堂は生協やデパート、スーパーへと売り込んでいったのです。
商品企画会議で山を下りてきた王隠堂はなかなか帰らないようで、よく家から「政見はいつ頃戻るんでしょうか?」と電話があり、ポランのスタッフも「スミマセン!会議が長びいていて」と電話を切るのだけど、「会議はおとつい終わってんじゃん。ミナミで政見見たってよ」ということもままあったりしました。
和歌山にも梅林を広げ、レストランもはじめ、「王隠堂ブランド」は広く信頼をあつめるようになっています。
そのはじまりが、あの日だったかもしれないと思うと、八百屋冥利に尽きる1日でした。

『語り継ぐ物語』のこと

あひるの家の商品棚には数多くの品物が商品として並べられています。
商品ひとつひとつには人の営みの積み重ねがあります。
こだわりやゆずれないものや守りたいことやすすめたいことなど、なかなか商品だけでは伝えられない一端でも知っていただけたらと思い、「物語」(不定期掲載)をはじめることにしました。
ちなみに『語り継ぐ物語』その1は、前々号のあひる通信「沖縄編」でした。
パン屋さん魚屋さん豆腐屋さんお百姓さん……皆さんの日々の営みと重ね合わせ、励みになるようなものが記せたらいいなと思います。