『あひるの家の冒険物語』 第16話  時代がおわり、時代ははじまる ―その1―

国立桃正飯店2階大宴会場に50名程が集いました。
“あひるの家10周年記念パーティー”が始まろうとしています。
集まったのはポラン広場の八百屋たち20名と、大地を守る会から藤田会長や徳江さん、天内さんなど提携グループの人たち10名、そしてあひるの家のお客さんが15名程でした。
お招きしたお客さんは、あひるの家スタッフ各人がリストアップした人たちです。ぼくは3名のお客さんの名を挙げました。
1人目は相さんです。
1977.9.5 リヤカー八百屋初日は、朝から雨が降りつづいていました。リヤカーを覆う赤いテントはまだ届いていなくて、庭先にあったゴザを掛けて出発したのです。
5軒ほど回って国立学園の前を通りかかったのは昼頃でした。この後連絡をもらっていたのは3軒で、時間があり余っていました。積んでいた野菜は濡れはじめ、雨具を用意していなかったので服もジーンズもビショ濡れで、重く体にまとわりついていました。「どうしたらいいんだろう」、気持ちはすっかり萎えていました。
向こうから傘をさしたご夫婦がやってきて眼が合ったのです。
「あなた、何やってるの?」と声を掛けてくれ、「あの角を曲がったところだから、今度寄りなさい」と言ってくれました。
相さんのお宅には月曜日と木曜日にお伺いしました。
相さんがいらっしゃらない時は、同年代の姉妹の方が出てきました。2人ともそれはそれは美しい人で、聡明で、弾ける笑い声の素敵な人たちで、いつも30分間程話しをするのがとっても楽しみだったのです。
2人目は田坂のばあちゃんでした。
旭通りに出店を出していた頃からよく顔を出してくれていて、スタッフとしちゃんに着なくなった服を手直ししてプレゼントしてくれたり、裁縫を教えてくれたりしていました。
ある日、店のレジに何人か並んでいる時、後ろの人の顔を見て、「あんた、テレビに出てたことがあるでしょう」と声かけたのです。
「ええ、以前」と戸惑いながら応えると、「そうかい、最近みなくなったねえ」と、話しかけるのをやめました。田坂のばあちゃんは、「売れなくなってテレビに出なくなったんだろう。カワイソウに」と思ったんだと思います。
でも、お客さんで元歌手の百瀬さんは“絶頂期に引退したんだけどなあ”と思ったものでした。
「あんた、そろそろヒゲをそっても八百屋できるんじゃないの」と言ってくれた田坂のばあちゃんの言葉は印象的でした。
3人目は松下さんです。
その頃、大学の先生になりたての松下さんは独り身でした。毎日のように店に寄って、お茶を飲んだりお喋りしていきました。
『ジャックと豆の木』がオープンする時は、スタッフ大森君と合羽橋に行って、鍋・フライパン・食器などを買い出しに行ったりしてくれました。
スタッフの個人的な悩みをきいたり、自分の恋の悩みを打ちあけたり、飲みに行ったり、イベント企画を一緒に練ったり、年末商戦の12月26日~31日まで毎夕顔を出して「どう、今日売れた?」と店内を見回し、売れ残りそうな物を買っていきました。
20名程の友人が集まっての結婚披露宴を『ジャックと豆の木』で催し、歓びと誇らしさで“松ちゃん”の表情は輝いていました。
松下さんはあひるの家の最良のパートナーとして歩んでくれた人です。
「10年でパーティーって早くないですか。30周年記念パーティーを楽しみにしています」という北千住『椿屋』村上君の激励の言葉や、「リヤカーの頃からそばにいて、今度は折れる、今度は駄目かなと思わせることが何回もあったのですが、そうなりませんでした。思うに、例えば綱引きをしていて膠着状態になって袋小路ダと頭をかかえている時、いつの間にか狩野さんは玉入れをやっているのです。そっちの方が面白そうなのです。つくづくネットワークはフットワークだと思うのです」という流通センター『夢市場』の小野田さんの述懐や、大地の藤田さんから「ポラン広場は目の中にできたグリグリみたいに気になるうっとうしい存在でした。この2~3年ご一緒することも多くなり、グリグリもとれて視界良好になりました。これからも力を合わせて有機農業を広げていきましょう」というメッセージをいただいたりしました。
にぎやかに、華やかに10周年パーティーの夜は更けていきました。

“あひるの家10周年記念イベント”が次々と催されていったのです。
その頃、大地を守る会を通じて知り合いになった河合さんの静岡内浦漁協への“とれたて鮮魚買い物バスツアー”や、前日からあひるスタッフが泊まりこんで、早朝あがった魚を大漁旗をなびかせながら持って来て、店の隣の会社のスペースをお借りして“直送!魚大卸売会”を催したりしました。鮮度のいい魚のエラは刃物のように鋭く、掌が血だらけになったりしました。
夏にはバスをチャーターして、群馬鬼押し出しキャンプ場に一泊。翌日は北軽井沢石田農園での農業体験など“サマーキャンプ”を催し、味噌づくり、パンづくり、餅つき、ティーパーティーと目白押しでした。
そして、「集客力のあるスーパーなどの近くで、角地単独スペースで駅のそば」と条件に見合った新店舗を、青梅線東中神にオープンすることにしました。
同時に、これまでの店舗販売配達、移動販売に加え、新たな販売チャンネルとして注文販売(宅配)をはじめることにし、新店舗2階の1室を借り、パソコンを導入し事務所を設けることにしたのです。
この頃、八百屋開業希望者が毎月のように訪ねてきました。その多くは脱サラご夫婦でした。
「お店をやるにはどの位かかりますか?」「どの位売れているんですか?」「子供2人いて月30万円位かかるんだけど」「お客さんはどうやって見つけたんですか?」「セールストークのポイントってあるんですか?」「高い高いって言われてるけど、どの位高いんですか?」「ポラン広場はどんなサポートしてくれるんですか?」「夫婦でうまくやっていける秘訣は?」・・・・・・・・・・・・
どう応えたらいいのかわからないことも多かったり、始めてみないとわからないこともあるのだけど、あひるの家や他の八百屋たちの例をあげて、開店費用、働き方や給料、野菜の値段の仕組みや、これまでだいたい1年目200万円/月で年を追うごとに100万円位ずつ売上げがあがり、粗利益は23%~25%位だから、それを目安に事業計画や家計の目安を考えてみたらどうだろうか、といった話しをしました。
八百屋開業希望者が帰られた後には、ぼくはいつも小さな苛立ちを感じていました。
「見る前に跳んでみたら」「レールは1本ずつしかつながらないんだから」「自分の答えを見つけないと」など、何度も出かかった言葉を飲みこんだからでした。
でも、考えてみたら、新しいことを始めようという時、不安要素を一つずつ潰してから決断しようとするのは当たり前のことです。ということは、“この八百屋の仕事”が仕事選びの1つになっているということなのです。10年前とも5年前とも違うのです。
話しをした3分の1が開業し、3分の2が断念しました。尋くと、開業決断はおかあちゃんがしたところが多かったようです。
あひるの家を人も羨む仕事場にしよう、と改めて思ったものです。
“半分は、あひるスタッフのため。半分は、これから出会う人のため”
内に向かっていたベクトルの矢は、外へ外へと放たれようとしているのでした。

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