「あの時やめておけばよかったなあとつくづく思いますよ」とのたまわったのは栃木宇都宮の『かぶら屋』(4月廃業・八百屋歴35年)の光内君でした。“あの時”とは、ポラン広場の八百屋をやって12年目、店の立ち退きの話しがあって、多額の立ち退き料を手にした時のことです。
「狩野さんがやってきて説得されて新しい店に移ったんだけど、あとはお金がでていくばかりだったなあ。まあ、自分にも八百屋に未練があったんだろうけど……」
「立ち退きっていえばさ」と話しを引き取ったのは、北千住『椿屋』(9月廃業・八百屋歴36年)の村上君で、「おれはサ、西新宿で友達と2人で小さな喫茶店をやってたんだよ。バブルのど真ん中で、ビルを建てるから立ち退いてくれって言われ、1人1億円もらったんだよ」
「今の店を買ったんだけど、それでも5000万円位残ってたけど、30年の間に全部なくなっちゃたよ。そういえば1度ももうかったことなかったなあ。金も尽きたし、消費税も上がるんでやめたんだよ」
「そう、そう」と体をのりだしてきたのは、阿佐ヶ谷『結』(2016年廃業・八百屋歴39年)のネコさんで、「暑い暑い夏の日、お客さんが3人しかこなくて、あ~あ私は来年の夏もこれをやってんのかと思ったら、もうイヤだ!もうヤメた!と思ったんだよね」
「あひるに行くとアレコレ工夫して元気にやってるのを見ると、私もやっていればよかったかなと思う時もあるんだけど……。あひるが続けているのは奇跡みたいなものだと思うよ」
10月19日北千住で八百屋+栃木の百姓たちとの同窓会での一幕です。懐かしい顔が10名集まりました。
各人が近況や今思っていることなどを話すのですが、「なんにも話すことなんかねえよ」と言うのですが、話しはじめると15分のリミットをこえて、ストップをかけないと話しつづけるのです。栃木鹿沼の鈴木章さん(百姓歴45年)は、
「この間の台風19号で近所の川が越水して、家の方にドンドン流れ込んできたんだよ。水の流れを変えようとブロックや木材を置いたりして、一番気掛かりだったのは牛舎に水が入って牛が暴れ出さないかだったね。ギリギリセーフだったよ」
「70才を超えたかあちゃんと2人、今のままではもう無理だなとつくづく思った訳よ。どうやってこの仕事を終わりにしていくかっていうことを真剣に考えなくちゃって思ったな」
「それって章さん、世間でいう終活ってことですよね」と話しを継いだのは、栃木鹿沼の田島君(百姓歴40年・60才)です。
「おれはさ、今10町歩も耕してるんだせ。近くのお百姓たちがどんどん廃業していって、“田島んところでやってくんねえか”って持ちこんでくるんだよ。村の田畑が荒れて野生動物の住み処になるのも嫌だし、だから引き受けるんだけどさ……」
「あてにしていた息子はサラリーマンになって、かあちゃんと2人+αではとても無理なのでマシンに頼る訳。おれんとこの納屋、農機具の展示場みたいになってるよ。でもさ、気がついたら1日マシン転がして畑の土におりなかったなと気づくとゾッとするね」
「ほら見て。このひとさし指もおや指も足の指もマシンにはさまれちゃって、でも医者いくのいやでサ~グダグダ~グダグダ~農薬は絶対使いたくないしさ~グダグダ~グダグダ~ああ、おれはどうしたらいいんだろう」
有機百姓のホープと目していた田島の悩みを聞いていると、栃木芳賀の養鶏家高田君が話しに割りこんできて、
「田島はまだいいよ(?)。おれはサ、3年前にくも膜下出血をやってから体調不良でさ。娘2人がガンバッテルんだけど、いつ血管が破れるか不安でさ。おれの友達もさ~グダグダ~グダグダ~~~」
8時3分が栃木行き最終列車ということで、喋り足りなさをおおいに残しながら散会したのでした。
廃業した元八百屋の仲間たちの話しを聞きながら、「そうか、こういう風に八百屋を終わりにしていったのか」とここ数ヶ月の売上げの急落に立往生し、先行きを見通せないでいるあひるの家を思い、「明日は我が身」としみじみ思ったものでした。
「希望」を語り合うことはできなかったけど、「絶望(?)」と熱く語り合えたのは、その前数十年に亘りともに歩んできた「自らに語り継ぐ物語」があったからだと思います。響き合う仲間は健在でした。