あひるの店先から

2月9日、大雪の降った翌日、北海道富良野から阪井君がやってきました。
阪井君を囲んで餃子パーティーをやりました。だんご三兄弟は今やだんごではなく“肉だんご三兄弟”に変貌し、お肉たっぷりの餃子を口いっぱいほおばっていました。
阪井君がやってきたのは、『北の国から』で有名になってしまった富良野麓郷(ろくごう)です。ということは、人の数よりキタキツネやエゾジカやクマの方が多い所です。
阪井君があひるの家で半年間のリヤカー八百屋をやったのは、35年前22才の時でした。
百姓がイヤでイヤで二度家出をし、ラーメン屋に住みこみながらボクサーを目指していたのですが、顎が弱くて断念。失意の中オヤジの手伝いをしている時、TVを観たのだそうです。
そういえば、黒い毛糸の帽子をかぶり、メモを片手に店に駆けこんできた姿はボクサーのフットワークで、軽快でした。
あひるスタッフが住んでいたアパートに即日入居し、翌日から野菜を積んで、国立の街にくり出していきました。
「雇ってもらえるかわかんないんでバッグ一つで来たんだけど、一週間もしたら布団とか服とか鍋、茶碗、冷蔵庫なんか家財道具全部そろっちゃったんだよね、お客さんが持ってけって。リヤカーで出発した時より、帰りの方が重かったりしてね」
その頃、あひるのスタッフは6名で、リヤカー販売3台、トラック1台、店と各々が分担していました。それ以外にも大学通り緑地帯や旭通り駐車場でも販売していました。
リヤカー八百屋は阪井君とプカ、ウリチャンの女性でした。私が32才で、あとは20才代前半でした。
阪井君は休みになると茨城や栃木(鈴木章さんなんかのところ)の農家に行って、「有機農業って何?」の手ほどきを受け、雪が解けはじめる春、富良野に帰っていきました。
「百姓やる」と帰って来た息子に、「有機農業って何だかわからんけど、百姓やるんなら一町歩あげる」とオヤジは大喜びだったそうです。
今につづくたくさんの思い出話しをしている中、「ところで阪井さ、給料っていくらだったんだい?」ときくと、「2万円でしたよ」と即答。
「ウソだろ!5万とか8万とかだったんじゃねえの」
2万円だよ。アパート代16千円で4千円残り、っていうの覚えているもの。はじめはエーッ!って思ったんだけど、誰も不満そうでもないし、変なところだなと思ったよ」
「まあ、食い物ある訳だし、いろいろお客さんがくれるし、夜な夜なアパートにいろんな奴集まって来るし、面白かったな。だから、金のことは考えなかったな」
ショックでした。ビンボーだったとか言うんじゃなくて、「2万円でいいよ」と思っていた自分や仲間たちがいたという事が信じられないのです。
その頃、グループたちで農場を開設し、その借金返済や農場スタッフの生活費に月20万円近いお金を供出していたのは覚えているけど、その頃のスタッフ全員がそのことを「共通の夢」にしていた訳でも、「有機農業命」って訳でもなかったから、「2万円でいいよ」がさっぱりわからないのです。
「あひるのタコ部室」という見方もできること、どこかから来てどこかに去っていく人々ということを考えると、それは成立しないだろうとも思えます。
「時代だったのかな」と言ってみても、時代は高度成長真っ只中で金ダ!モノダ!の時代でしたから、だからこそ一部の若者たちは極端な「反」に無意識の内に憧れていたのかもしれません。なぜなら、毎日のように八百屋志願者があらわれていたのですから。
2万円の真実」は不明なまま夜が更けていきました。
有機農業をはじめた阪井君のことを人伝にきいて訪ねていった若者たちが、道内のあちこちで百姓や牛飼いや羊飼いになっていったのです。
今お店には阪井君の玉ネギ、じゃが芋、金時豆、手亡豆が並んでいます。食べてみてください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です