あひるの店頭でたいやきやゆいの屋台がもう二度と見られないと思うと、「生き訣れ」のような胸苦しい気分です。
由井君も書いているように、8年前声を掛けたのがつき合いのはじまりでした。
エピソードⅠ ―たくさん話しをきいてくれてありがとう―
「リヤカー屋台でたいやきをやる」ということになった由井君に、リヤカーに野菜を載せて八百屋をはじめた私にとって、それは無条件連帯の旗を掲げるしかない喜びでした。
それも、始めるのが29才と同じ年齢なのですから、何度もお茶を飲み何度も飯を食いながら、たいやきや準備の話しもありましたが、主に私の「リヤカー八百屋経験値」を話したように思います。
辛く、立ち往生していたリヤカー八百屋が、ある時を境に楽しく舞いあがる気分に転換し、「全ての道はリヤカーに通じる」という知見に至ったことを話しつづけ、由井君はきっと「何言ってんだろう?」と思いながらも、笑顔をたやさずきいてくれました。
話したかった「リヤカー八百屋」のことをきいてくれた唯一の人が由井君でした。
エピソードⅡ ―あったかいものを手渡す仕事がしたかった―
その人の仕事やこれまでの人生を、飯を食べたり酒を飲みながら聞いたり喋ったりの集い、名付けて「有機交流電燈倶楽部」を催しているのですが、その第1回のスピーカーは由井君でした。
30名程が集い、由井君は中学・高校でやっていたパンクロックのことや、2度に亘る長期のインドへの旅の話しや、高知の有機農家での手伝い、東京に帰ってから新聞配達、ポスティングのアルバイトやマクロビのレストランでの仕事を経て、たいやきやになった話しをしました。
参加者から、「どうしてたいやきやになったんですか?」のお尋ねがありました。
由井君の隣で進行していた私は、「こいつ、どこまで話すかな?」と思っていたら、由井君が息を飲み、ひと呼吸おいて、「実は…」と話しはじめました。
「母子家庭で、いつも味噌汁とご飯はつくっておいて、団地の窓から妹達と母が帰って来るのを待っていて、買ってきた惣菜を温めて、みんなで、『おいしいね、あったかいね』と言いながら食べている時、いつかあったかいものを手渡しできるような仕事をしたいと思い、それがたいやきやをやった訳です」と応えたのです。
由井君の揺らぎのない心根を見せてもらったシーンでした。
エピソードⅢ ―時代がおわり、時代がはじまる―
おいしさと笑顔で、たいやきやゆいは口コミでお客さんがふえ、店先を貸してくれる所もでてきました。
その頃、度々手伝いに来ていた可愛い女の子(人)が洋子ちゃんでした。
「マクロビのお菓子を作っているパティシエです」と由井君に紹介してもらったのだけど、「マクロビ?パテシエ?」がわかりませんでした。
洋子ちゃんも勤めを辞め国立に引っ越してきて、家でお菓子づくりをはじめます。センス・技量・丁寧・おいしさ、どれも優れた完成度で、あひるの家ではさっそく販売させてもらうことになりました。
発売前、「なんでミモザなの?」ときくと、「春の今の花だし、由井君と出会ったのが4月なので」と洋子ちゃん。これは販売に力が入るってものですよね。
そして数年前、「たいやき100年メモリアルイヤー」が訪れ、TV・新聞・雑誌・イベントに引っぱりだこの大盛況。店先の屋台は、はじめから終わりまでお客さんに囲まれている状況でした。
そして夏、新たな大ヒットメニュー「かき氷」の登場です。
炎天下、店先のベンチに座ったり、道端に立ったりしてかき氷をかきこむ姿は、リゾート気分満点でした。
そして、「仕込み場と店舗をかねたお店」がオープンするのです。
「あそこはゼッタイムリだろう」という私の助言(?)を見事に覆して、「売切れゴメン!」の大繁盛店になっていくのでした。
この7年間、「期待を上回る結果を出すのがプロフェッショナル」だとしたら、由井君、洋子ちゃんはプロなんだと思います。
さて、5月になれば赤ちゃんも産まれ新しい生活がはじまり、仕事も新しいやり方になり、スタートということになります。
あひるの家は、伴走者としてこれからもおつき合いさせていただいて、楽しい夢を育ませていただきたいと思っています。