今年も福島熱塩加納町・緑と太陽の会から【さゆり米】の新米が届きました。
あひるの家に並ぶお米の中で一番古くから取り扱っている【さゆり米】は、福島原発事故以降風評により一時は厳しい状況にありましたが、「おいしい、安全な米を届けたい」の思いは変わらず、横浜の米屋・中村商店の協力のもと、三度の放射性物質検査を自主的に行い出荷しています。
11月最終週やっと店頭に届いた【さゆり米】。あひるのお客さんも待ちわびていました。おいしいお米を食べましょう。
さて、ここに10年前にあひるの家代表狩野が書いた原稿があります。
10年前にあひる通信に載せた記事だったのか記憶は定かではありませんが、あひるの家を代表する米【さゆり米】の誕生秘話が書かれているので、10年の時を経て、この機会に本ブログで紹介したいと思います
以下 文責:あひるの家代表 狩野 強
「八百屋なのに、お米屋さんみたい」と言われるくらい評判のいい【さゆり米】
福島喜多方熱塩加納村(注:現喜多方市熱塩加納町)
農薬化学肥料不使用 もちもち甘いコシヒカリ
―逆転の発想~2人の男が夢みた有機の米づくり―
熱塩加納村は会津若松の山間部に位置し、一つ一つの田んぼは傾斜地にへばりつくように点在しています。平地の田んぼのように機械による大規模農業ができず、米の収穫量も少なく、それ故村は若者の流出がすすみ過疎地域になろうとしていました。
25年程前のことです。村には米づくりにかける情熱を抱いたJA営農部長の小林さんが「平地に負けない米づくりができないか」と思案していました。ある日、いつものように段々畑を見ていてひらめいたのです。「平地ができない米づくりをやればいい」「機械が入らないなら人がやればいい」「水がいいんだから、ウマイ米ができるはずだ」。その日から小林さんは“有機の米づくり”を村人に唱いて回り、同時にJA・経済連などに有機米の取扱いをお願い行脚しはじめるのですが、「何ソレ?」と相手にされず途方にくれている時、横浜で米屋をやっていた中村さんと出会うのです。
その頃専売法という法律があって、お米の生産・流通・販売は政府によって直轄され、厳しい法規制がありました。中村さんは「国が定めた米だけを売っている米屋なんて面白くねえ」「もっとウマイ米を作ってもらってウマイ米を売りたい」と思っていたし、中村さん自身“水”に関心をもっていて、“水”を汚染する農薬・化肥に依存した米づくりに強い疑問をもっていました。村に住む1人の男と街に住む1人の男が出会い、いよいよ“村ぐるみの有機の米づくり”のドラマが始まるのです。
「大規模・機械化・農薬化肥栽培」に対して「小規模・人力・有機栽培」を掲げた逆転の発想は、次々と現実的な課題をつきつけられることになります。「人力」に頼ろうとしても実は山間辺地の村には若い百姓は少なく、じいちゃんばあちゃんに頼らざるを得ないため、営農部長の小林さんは集まりの中で何度も村の若者に胸ぐらをつかまれて「またおれたちに地を這えっていうのか」「なんでウチのバァチャンの腰が曲がってるのかおまえわかってんのか」と怒鳴られたり殴られたりしたと言います。
もう一つの課題は「有機の米づくりはどうしたらいいのか」「旨い米はできていくのか」という根本的なものでした。そんな小林さんの抱える課題克服に立ち向かったのが、横浜で米屋をやっている中村さんでした。
「有機の米づくり」の最大の関門は「除草」にありました。「一振りすればたちどころに草が枯れる」、まるで花咲か爺さんのような除草剤の登場は農家にとって救世主のようなものでした。「草を抜いて振り返ってみたら草が生えていた」といわれる手取り除草に戻ることは難しすぎる課題でした。
中村さんは社員総出で草取りや収穫に出掛けて行ったり、実家のある佐渡島に有機の米づくり実験田をつくり村人を連れて行って鼓舞したり、ポラン広場などさゆり米を扱っている流通販売者や消費者の人たちを村に招いて交流させたりと、村人の意識を変えようとしてきました。同時に、具体的に人力に頼らず、かといって機械化ではない方法としてハイディ除草機を開発したり、三重大学の先生に紙マルチ(被覆材)を作ってもらったり、どじょうによる除草を提案したりしてきました。
もう一つの課題「旨い有機米」は出来ず、「マズイ有機米」を高く買い取って安い標準米に混ぜてさばいていくという経済的リスクを負いつづけました。
中村さんの強力なバックアップを受けながら小林さんは、一部落、また一部落と有機の米づくりを村の中にひろめるとともに、全国各地の米づくり集会にでかけアピールを繰り返していきました。減反政策をはじめとした農政に疑問を感じ、希望のある米づくりをしたいと思っている若手米作農家たちが村を訪れはじめ、村は希望の星となりさゆり米の評判は高まっていきます。そんな状況を喜びとともに焦りを感じていた小林さんと中村さんは、古くて新しい課題である「除草」に合鴨の力を借りることを試みるのです。
「草を食料とする合鴨に除草をお願いする」という発想自体新しく、実地にあたって“草だけでなく苗も食べてしまう”“カラスや野犬やタヌキに襲われると怯えて草を取らなくなる” “子供たちが面白半分に追いまわす”“草を食べなくなった鴨の始末”・・・といった課題は出てきますが、「除草」に関してはおおむね解決していくのです。熱塩加納村の成功例は「合鴨農法」として全国に拡がっていくのです。
村では「緑と太陽の会」を中心に有機の米づくりが進められていきます。定年退職で村を下りた小林さんは、自ら米づくりを行いながら、全国各地の農家の集いに出掛けています。中村さんは米屋を次の代に譲って悠々自適といいたいのですが、体調を崩して療養中です。
村の営農部長と街の米屋がこだわりつづけた狭いフィールドで展開されたプロセスが、今全国で展開されています。二人の果たしたことは“なんでもあるけど希望がない”時代に希望の一粒の種を播いたことだと思います。