1978年春3月仁君が、その10日後に武重君が訪ねてきました。
髪を後ろで束ねて顎鬚をのばした仁君は、山梨韮崎の自給自足を営む農場からやって来ました。
武重君はこれまで定職についたことがなく、趣味の写真と不用品修理でいくばくかのお金を稼いで生活していたそうです。この日もカメラ携えてやって来ました。
国立と周辺エリアを分けて、3軒のリヤカー八百屋がはじまったのです。ぼくには「仲間がふえた!」という喜びよりも、「エーッ!どうして?」という戸惑いの方が大きかったのです。
2人はよく夜訪ねてきて、ぼくの子供たちと遊んでくれたりしながら、「里芋の傷みはどうしたらわかるんだろうか?」とか「サツマ芋がボソッと腐るんだけど」「風にあたってヨレヨレのほうれん草は、水をふった方がいいんだろうか?」「100g35円で470gあった時、どうやって計算してる?」「卵の殻、割れやすいよね」など、今日お客さんに言われたことなど話しは尽きないのです。たった半年なのに、彼等にとってぼくは八百屋の先達ということになる訳です。
そして8月、「役所辞めてきちゃった。八百屋やらして」と清々しい笑顔で、元職場の同僚だった藤井愛子さんが増田書店の前にあらわれたのです。
元職場のサークルではフェミニズムをテーマに活動し、本屋さんの前によく顔を出してくれていました。それでも、「辞めてくる。八百屋をやる」とは思いもしませんでした。
仁君のパートナーで、自給自足農場に出入りしたり八百屋を手伝ったりしていたむっちゃんから、八百屋をやりたい旨のアピールもありました。
5人で話し合いをもったのです。
「フラットのエリアを考えると、5軒のリヤカー八百屋がやっていくのは難しいよなあ」
「リヤカーの基地があるといいね。荷物のやりとりもできるし」
「八百屋だけじゃなくて、ふらっと人が立ち寄ってお茶飲んでいく場があるといいね」
「そうそう、元気のでる情報交差点みたいなスペース」
ということで、藤井さんとぼくの退職金で持てるお店を探すことになりました。「1年間やって、9月4日に八百屋をやめる」という、ぼくの秘かな決意を言い出すことができませんでした。
10月、国立西(駅から15分)の富士見通り沿いに、7坪の縦長の店をオープンさせたのです。
店の看板は、友人で画家の清重君(いもむしころう)が、「1週間分の食材提供」とひきかえに描いてくれました。濃いグリーンの下地に、大根と人参を掲げたあひるがユーモラスに描かれています。
●スタッフ:5人 30才1人 20才半ば3人 20才1人
●八百屋暦:1年1ヶ月1人 7ヶ月2人 0ヶ月2人
●販売形態:店舗(無休) 軽トラック リヤカー2台
●運営:合議制
●給与:一人一律7万円
店がオープンしてからもしばらくはリヤカー八百屋をつづけていたのですが、リヤカーで買っていたお客さんで店まで買いに来られた方は1割もいませんでした。
思うのです。
「ほとんどのお客さんは“有機無農薬の食品”が欲しかったという訳ではないんだ。じゃあ、あの熱い共感、共有のようなものは何だったんだろう?」
以降、「リヤカー八百屋のような店になりたい」というのがテーマとなります。
そんな目算外れも、立地もあったり不慣れもあり、店はあんまりというか相当売れませんでした。来客数3人という日もありました。
「待っていてもしょうがない」ということで、交替しながらリヤカーに野菜を積んで、旭通りバス停前の駐車場、大学通り緑地帯、増田書店前、富士見台第一団地などで宣伝をかねて販売したりもしました。
朝リヤカーで出発する時より、帰って来た時の荷が多いという武重君は、壊れた自転車や弦の切れたギターや、使わなくなった冷蔵庫をお客さんにもらってきたり、拾ってきて修理しクリーニングして一緒に売ったりもしていました。
店にはお客さんはあんまり来なかったけど、店内の1畳の畳スペースは“旅人たちや国立・国分寺の知り合いたちのたまり場”にもなっていたので、にぎやかな笑い声であふれていました。
空気が澱みはじめていました。
むっちゃんや藤井さんは勿論のこと、仁君や武重君そしてなによりぼく自身が、“澱み”をコントロールする気構えがありませんでした。
「店を持ちたかった」訳でも、「仲間がほしかった」訳でもなく、更に「八百屋をやりたい」訳でもないぼくには、踏みこんで向かい合ってゆく情念のようなものがなかったのだと思います。
音がすれど姿のみえない昼の花火のように、音がする度に顔をあげて、少しワクワクしながらながめるのだけど、何も見えないというもどかしさが続いた1年でした。
―訂正―
始めるにあたって「時系列と名称が苦手」とお知らせしましたが、さっそく間違えました。
リヤカー八百屋のスタートを1978年と記しましたが、1977年9月5日の誤りでした。古いメモが見つかったり、学生の頃から指折り数えてみて判明しました。
ずーっとそう思っていたので、『あひるの家の冒険物語』を書き始めた最大の収穫を得たような気がします。
あと、人名がよくでてきますが、今もあの頃も本名を知らなかった人がたくさんいたことを思い出します。通称名で記していきます。