あひる通信6.8号『あひるの家の冒険物語』をお読みになった方はお気づきかと思いますが、(有)あひるの家の代表が代りました。
初代代表狩野が築き上げてきたあひるの家を、息子のぼくが引き継ぐ形となりました。
父・狩野がリヤカー八百屋あひるの家を始めたのが40年前、ぼくがまだ4才の時です。
当時29才の若き父が遅い夕方リヤカーで保育園(奇しくもウチのだんご3兄弟も同じ保育園に通わさせていただきました)にお迎えに来ると、仕事の内容は理解していないくせに「おれのとうちゃんスゴイだろ!リヤカーにのってかえるんだ」と鼻高々で、「なんならお前ものってく?」と調子に乗ってウキウキしていました(余談ですが妹のスタッフまどかは危うくリヤカーにひかれそうになったことがあります)。
小学校に上がった頃、富士見通りにあひるの家初の路面店が開店した時は、家(自宅)に自分の部屋がなかったので、学校から帰ったら自転車で店まで行き、スタッフのお兄ちゃんが作ってくれた天井からぶら下がるブランコに乗って店内を見下ろし、我が城得たりとゴキゲンでした。
調理実習の時に1合ずつ米を持っていって炊いたご飯が「なんでうちの班だけご飯に黄色いツブツブが入ってるんだ?」と言われたり、「お前んとこの八百屋にアサ◯ラショーコーがいるってホント?」なんて多感な少年時代を過ごし、母であるスタッフくみさんに見送られて初めての一人暮らしを始めた大学時代、スーパーで買ったトマトを食べて「あれっ?このトマト味しないじゃん」なんて思いながら大人の階段を登りました。
~中略~
29才、現スタッフりかとの結婚を前に、それまで好きな飲食業しか経験がなかったのですが、「深夜に帰るのはどうなの?」「遠い将来、国立からあひるがなくなるのはなんかヤダな」という、軽ーい気持ちであひるの家に就職しました。
~中略②~
で、現在に至るわけなんですが、あひるの家歴40年(実働期間15年)にして、この度(有)あひるの家の2代目代表となりました。
あひるの家初期からのみなさんから見たらまだまだ若輩者ですか、15年間公私にわたり父・初代代表狩野とともに歩んだ経験は、ぼくの中にしっかりしみこんでいると自負しています。
春3月、人知れず代表交代していたことの事後報告になりましたが、お客さんにおかれましては八百屋『あひるの家』は今まで通り狩野・くみさん・りか・まどか・あかしが楽しく営業しておりますので、変わらぬご愛顧よろしくお願いします。
あひるの家2代目代表スタッフあかし(スタッフはいらないか?)
ふーーーーん、ふうううううーーーん。
あかし君が2代目襲名ですか。
40周年ね。五輪なら11回ひっかかってるわけだし、
世界大戦の1-2戦間というのは20年余りしかなかったし、
関東大震災から88年目に東日本大震災がおきたんだし、
「へーせー」っちゅう年号は31年でオシマイなわけだ。
さて、あかし君も40年やらなくちゃね。
できるかぎり、応援しますけど、今回はいったん僕は区切ります。
カンサンミダ。がんじい
まえだ舎衛さん?がんじいさん?はこざきさん?誰?
ぼくももうあひる歴15年なんで、あと25年やってはい次の人ってわけにはいかないですかね?
そんなことより、夏なんで【キーマカレー】が食べたいです!
あかし