畑だより ―南の島々との熱い出会いがはじまった話し―

神奈川・北原くん、八王子・神田くんの畑をはじめ、関東圏の畑は端境期真っ只中で、野菜も少なくなっています。
百姓たちは種播きや苗づくりに汗を流しているのですが、この初夏のような陽射しでブロッコリー・カリフラワー・葉物など一気に育っているようです。
そこで今回は閑話休題、青い空と碧い海、ふりそそぐ陽の光、南の島々とのはじまりのエピソードを紹介します。

エピソード(Ⅰ)国産無農薬バナナを復活しよう! ―鹿児島・徳之島への旅―

「わたしの歩いたところ以外は歩かないように」と木の枝で生い茂る草をかき分ける島に移住した奥田さんの後をついていくと、草むらの向こうに背丈2メートル位の草木があって、黄色く熟れたバナナがぶらさがっているのです。
子供の絵本などで、高い木の上にたわわなバナナが実っていると思い描いていたのですが、押せば倒れそうな草木でした。
奥田さんがもいでくれた島バナナを食べようと辺りの草むらに座りこんだら、「ハブがいるから立って食べて」と言われ、立ったまま口に入れたのです。
「なんだコレは!!」甘~い香りととろける口あたり、今まで一度も食べたことのない味わいです。完全にトリップしてしまったのです。海を見ながら奥田さんと「バナナをやろう!」という話しで盛りあがったのです。
『島バナナの会』というグループをつくって、奥田さんが島民の人たちを誘って栽培をひろげ、私達ポラン広場グループがその受け皿になるということを決めました。
その後3回程島を訪れ、ある時は「町長が一席設けているから」と宴席に招かれたのです。接待されるなんて初めてなので結構舞い上がってしまいました。
「徳之島は漁業と農業と観光で成り立っているのだけど、サトウキビ栽培に頼った農業は砂糖相場の暴落などで立ち行かなくなり、若者たちが島外に出ていってしまっている。そんな時、新しい農業を提案してくれ、島おこしを一緒にやってくれるというのは、こんな心強いことはない」と町長が挨拶し、「よろしく」と酒をついでくれたのです。
「エライことになっちゃったな。ただバナナがうまかっただけなのにな」と戸惑ったのですが、「やるしかないでしょ」ということで始まったのです。
島バナナを店頭で販売できたのは3~4回だけでした。実は、バナナが熟す時が台風の時期とドンピシャだったのです。
「さあ、出荷だ!」という時に台風が来て、根こそぎ倒されてしまうのです。窪地で栽培して風をよけようとしたのですが、ダメでした。『島バナナの会』からは1人また1人と抜けていったのです。
島バナナは断念して、台風の影響が受けにくい「土の下」の野菜にシフトしていったのです。
徳之島とのつき合いが始まったのが1986年ですから、15年余りが経った頃です。ネットのない時代でしたから、沖縄からの情報をキャッチすることはできませんでした。
そんな時、沖縄の那覇に『まめだ』という八百屋が始まり、ポラン広場からの出荷も始まったのです。
『まめだ』から発信があったのです。
「おれんとこにいろんな島から野菜をとってくれって連絡があったんだけど、一度来てくんない」と言うのです。
ポラン広場グループの野菜担当とネットワーク担当の私が、3泊4日の予定で島々を巡ることにしたのです。「まだ泳げるかもしれないな」と、水着をバッグにおしこんでいったのです。

エピソード(Ⅱ)島々を結ぶオーガニックアイランドネットワークをつくろう! ―沖縄本島・宮古島・石垣島・小浜島への旅―

本島では―

『まめだ』の吉祥くんが、北部何部の2ヶ所に場を設定してくれていました。
各々20名位が集まってくれていて、グループの紹介や野菜の作付け、流通の仕組みなどを話させていただき、質疑の後関心のある人に残ってもらい、その人の畑を見せてもらって具体的な作付に入るのです。
那覇の作本さんのところでみせてもらったトマト畑は、陽をサンサンと浴びて、10段位までとれるとのことでした。
養鶏をやっている吉富さんの鶏舎は海に面した傾斜地にあり、平飼いなのだけど密飼いという位鶏たちがいるのですが、鶏たちは穏やかで、肩の上に乗ったりします。吉富さんが言うには「丘の上の神社の土と海風が、鶏たちを穏やかに健康に育てている」ということです。
作本さんの所でも吉富さんの所でも、陽射しと風と土がとてつもない生命力を育んでいるのではないかと思ったものでした。

宮古島では―

空港を出ると、安仁屋さんをはじめ5人の百姓が2台の車で迎えに来てくれていました。
畑に向かう車中で彼等同士が話している言葉は一言もわかりません。完全に異国モードです。
マンゴー畑パッションフルーツ畑ドラゴンフルーツ畑と見せてもらうのだけど、見たことも食べたこともない果物だったので、よくわからないのです。いんげんとピーマンなどの野菜畑に行った時は、ほっとしたものでした。
畑のまわりの樹にすずなりになっているピンポン球位の黄色い実がなっていたので「これはなんだい」ときくと、「シークワーサーっていって、泡盛に入れるとうまいんだけど、ほとんど放置だな」ということで1個いただいて口にいれると、酸味があってほんのり甘いのです。
「レモンのない季節にこれをやるといいな」と言うと、「こんなん売れるのかなあ」と言うことです。
喋って喋ってついには飛行機内まで入りこんで、「おれの友達がスッチーだからダイジョーブなんだよ」とか言って、出発のアナウンスがあるまで掌を握りしめ話しつづけていたのです。

石垣島では―

平安名さんが迎えに来てくれ、さっそくパイナップル畑に連れていってもらいました。
何故か平安名さんは漁師が着るような胸まである厚手のゴムガッパ(?)姿なのです。
緑色のパイナップルがズラーッと並ぶ畑で話していると、畑の真ん中あたりに黄色く熟したパインがあるのです。
「あれ食べていい?」「どうぞどうぞ」と言うので畑に入っていこうとすると、背後から「ハブにきをつけて。おこすとかみつかれるよ」の一声。「早く言ってよぉ~」と退散したのです。
小さなパイナップル缶詰工場を見せてもらって、海辺の料亭で沖縄料理のフルコースをごちそうになりました。
「今は99%が輸入のパインだけど、国産パインを広げたいんだよ。沖縄でも石垣島だけにハワイからの風が吹いてくるので、一番旨いんだよ」と平安名さんは熱く語っていました。

小浜島では―

石垣島から船で30分位、『小浜タクシー』で迎えてくれたのは30才代の名越士くん。島めぐりをしながら「島には小中学校しかなく、高校生になると石垣島に行くしかなくて、若者たちがどんどん島外へ出ていってしまっていて、年寄りだけになってきているので、農業もままならなくなっている」とのこと。
名護士くんは鹿児島でラジオのDJなどをやりながら、夏に全国から「草刈り十字軍」的な催しをやって若者に来てもらったりしているとのこと。
かつて稼働していた島営の砂糖工場を見せてもらい、「砂糖とかゴマの栽培ができないかな」という話しをしていると、「ちょっと待っててくれる。明日島祭りがあって、子供たちに踊りを教えることになってんだ」ということで、中学校の体育館へ。
15名程の中学生と先生がいて、沖縄の謡曲に合せて舞うのです。足を高くあげると名護士くんのくつ下から親指が顔をのぞかせるのです。
床に座って謡曲を聴きながら開け放たれた窓の外を見ると、海がキラキラとどこまでも広がり、快い風が吹きこんでくるのです。
「天国に近い島」、そんな得も言われぬ幸せな気分でした。

沖縄の旅は、毎夜毎夜宴会でした。酒を飲めない私は毎夜毎夜ソーキそばを堪能していました。ただ、豚足・豚耳・緑や黄色のトロピカルな色合いの魚はどうもダメでした。
島々には、1人か2人は出荷先のあてがないのに有機農業を志す変わった人がいたのです。「おれの気持ちがわかってくれる流通と出会えるかも」という気持ちが、熱い出会いになったのです。
沖縄・徳之島からは新じゃが芋・新玉ねぎ・石川小芋(里芋)・きゅうり・トマト・ミニトマト・ピーマン・パプリカ・いんげん・シークワーサー・パッションフルーツ・パイナップル・マンゴー……などをいただいています。

新しくはじまる野菜は、のらぼう・白菜菜花・小松菜菜花・かき菜・花わさび・うど・春大根・春キャベツ・新さつま芋・新人参などで、果物はグレープフルーツ・夏みかん、甘夏・河内晩柑はまだ続きます。
今期はハーブスマン福山くんが体調を崩し、ハーブの苗・野菜の苗の出荷ができなくなってしまいました。楽しみにしていた人、申し訳ありません。福山くんの体調回復と来期に期待します。

(狩野)

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