5月28日29日、春爛漫の福島の海と山に行ってきました。
あまりの陽射しで顔と腕はマッカッカで、「朝から酒飲んでんの」と間違われる位。でも、「海と山イッター!」の気分爽快です。
朝7:00東京発のいわき号に乗り、10:00着。はじめに向ったのは小名浜漁港にある「出荷前検査場」。休日にもかかわらず案内してくれた中野青年(担当職員)。
「20魚種(海の底にいる魚)は出荷禁止で、その他は検査して25ベクレル/kg以下だと出荷している(国:100ベクレル/kg、県:50ベクレル/kgを出荷基準にしている)」
「それでも、福島の漁港にあがったというだけで、売れないか買いたたかれる」
「漁師や漁協には補償金が出ているけど、仲買い・倉庫業・加工業・運送屋・冷屋など、漁港を支えてきた人たちには全く補償はないので、廃業が続いている」
「他の地域は検査していないのだから、検査してある福島は安心よね、とならないですかね」
と、幾種もの検査器を前にため息をもらしていました。
検査場の前の観光スポット『ららミュウ』には、何軒もの魚屋さんがいせいのいい声をあげ、魚貝を売っていました。「福島産」のものはゼロでした。
次に向かったのは薄磯地区。3.11のあの時刻(14:46)に村にいた人の半数(150名)が亡くなった地域。10数台の重機が整地・かさ上げ工事を行ってホコリっぽい。
10mのかさ上げ地で待っていてくれたのは、語り部の大谷さん(60才位)。「重機の音に負けないようにハンドマイクで話します」と話しはじめたのは、2011.3.11.14:35~15:15位の30分間体験したことでした。
「第一波の津波は全く気付かなくて、チョット海を見てくると家から200mのところにある
4.7mの防波堤に登ったら、水平線まで海底が黒々と見え、全身が総毛立ち、家に駆け戻ったのだと思う。というのは、今なお、家にどう帰ったのか思い出せません」
「あと7分で津波がくるとラジオが言っていたのを聴いたように思うけど、裏の神社の10段目の階段でふり返った情景までの30分間の記憶もないのです」
「これを話せるようになるのに3年かかりましたが、神社の10段目でふり返ると、女房が犬2匹をかかえ、93才のおばあちゃんの手を引いて、70才のおばちゃんと階段を登ろうとするところでした。もうすぐ後ろには、黒々とした獰猛な海水がおしよせていました。私は“手を離せ!”と何度も叫んだことは、はっきり覚えています」
「後できくと、近所の子供を背負って高台まで駆けていたり、そのおばあちゃんも途中まで背負ってずりおちてしまったことなど聞かしてもらうのですが、記憶になく、“手を離せ!”という自分の声だけが残っているのです」
海を見ながら、10mの盛り土の上で陽を燦々とあびながらの1時間は、あっという間でした。
たくさんの話しをしてくれた彼の最後のメッセージは、「語れるのに3年が経ちました。語ることで、聞いてもらうことで、私の肩にのしかかっていたものが軽くなっていくようです。今回、皆さんにお渡しするお土産はないのですが、私の肩の荷を少しずつ持って帰っていただけたら嬉しいです。軽くなった分、村の再建に向かう力が出るような気がします。また来てください」と、握手をして別れました。
と言うことで、今回の福島ツアー“海編”はここまで。次号(?)、“山編”です。
あひるの店先から
Leave a reply