まだ魚屋になって1年目位の時、中学の先輩の小山(製菓)さんから、「おれがお世話になっている国立のあひるの家ってところが、魚屋をさがしているゾ」と言われ、女房と二人でお店に行ってみました。29才でした。
小さなお店に並べられている商品は、ナショナルブランドはなく見なれない商品ばかりで、「こだわってんだな、この店は」と思いました。
お客さんとお店の人が話していて少し待たされたのですが、買い物をした帰り道、「なんか、あの店だったら、おれの魚売れるんじゃないかな」と女房と話したのを覚えています。
それでも「何が売れるのか」「お客さんは何が欲しいのか」全然わからず戸惑っていたのですが、ある時築地で、高いけどとってもいい魚を手に入れ、お客さんに「高いんだけど、今のこの時期この港にあがった魚はウマイ!」というようなことを話しすすめたら、「じゃあ、もらおうかしら」と買ってくれ、その日は完売になったのです。
帰りのトラックで、「そうか、売りたい物を売ればいいんだ」ということがわかり、あまりの爽快感でハンドルを誤るところでした。
「魚屋冥利に尽きる」その一言です。
それまで、ぼくのおじいさんやオヤジや同業者の人たちから、「お客が買いたいものを仕入れる。それが商売ってものだ」と言われつづけ、反撥しつつもそう思っていた自分がいました。
それが、自分が「コレダ!」と選んだ魚を「それなら」と買ってくれ、更に何人ものお客さんから何回も「おいしかったよ」と電話までいただいたのですから、「よし!次はもっといい魚をもっていくゾ」と思ったものです。
実はぼくの休みは日曜日なので、あひるの家に行くと休みがなくなるのですが、それはちっとも苦にならず、行くのが楽しみな歳月でした。
行く楽しみのもう一つは、毎回毎回腕をふるって作ってくれる、朱さんの“まかないメシ”でした。「今日はなにかな?」向かう道中思ったものでした。
暗転したのが震災、放射能汚染でした。
“魚離れ”が一挙にすすみ、これまで熱心に買ってくれたお客さんも姿を見せなくなりました。
お客さんの“不安”は、よくわかるものでした。
ぼくも小山さんたちと何回もボランティアで被災地に行きましたし、漁港も漁師たちも大混乱でした。
今は放射能検査もしっかりでき、築地市場で取り扱われている魚は安全なのですが、“魚離れ”のダメージは今もつづいています。
そんな中、反対も多かったのですが、昨年12月中旬、青梅駅前に新しいお店を開きました。
魚以外に、魚貝を使ったお惣菜や小山さんの和菓子なども並べ、全く予想外の盛況でほっとしています。
ほっとして気がゆるんだせいでもないのですが、1月「一歩も動けない」程のギックリ腰をやってしまい、3週間動けませんでした。
その間、狭心症のオヤジに無理を言って仕事をやってもらいました。
でも、もう二度とこのような事態は避けねばと寝ながら思っていました。
そこで、誠に申し訳ないのですが、あひるの家での“店頭売り”をいったん休止させていただくことにしました。
只今「魚屋スタッフ募集!」をしていますので、入り次第“店頭売り”を再開できたらと思っています。
その間、毎週日曜日にぼくが選んだ魚をあひるの家にお届けするので、これまでと変わらずご利用いただけたらと思います。
「いい魚を手渡せば応えてくれる」「魚屋はいい魚を選んでお届けするのが仕事」だと思わせてくれる歳月でした。
その確信は、これから何十年か魚屋をやっていく上での核(コア)のようなものだと思っています。
ぼくが“魚屋”になれたのも、皆さんのおかげだと思っています。本当にありがとうございました。
今後とも、ぼくの選んだ魚をよろしくお願いします。
海野水産 海野和豊