あひるの店先から ―立ち位置が定まらない?!―

あひる通信でもお知らせしていたけど、5月23日24日福島へ行ってきました。4回目になります。
参加者25名が「満足!」と言ってくれた、充実したバスツアーでした。
まず訪れたのは、津波に襲われたまま放置されている富岡町の海岸線や除染作業の現場を見て ~ 復興ラッシュに活気づくいわき市の温泉入浴に立ち寄り ~ 山間部の三春町上三坂の農家レストラン『ぷろばんす亭』で、とれたてうちたてそばのご馳走とお酒を腹いっぱいいただき ~ セミナーハウス『OJONCO館』でカエルの大合唱をききながら雑魚寝、ゴロ寝、宴会のエンドレス ~ 早朝5時には起き出していた人もいた山野散策 ~ 若いカップルがやっている『きのことマサ』で朝メシ ~ 『OJONCO館』で開沼博さんと「3.11以降福島から逃げた人はどの位?戻った人はどの位?」なんてクイズ形式で福島の現状を知るセミナー(?)をやり ~ いよいよ、今ツアー最大のお楽しみ(?)、除染の終わった芝山山頂(800m)でのバーベキュー会場へイザ! ~なんと、50名を超える老若男女の村人たちが大歓迎、大拍手。食う、飲む、喋るの大盛りあがりの2時間 ~ 「また来るね~」「田植え手伝ってくれよなあ~」の声に見送られて、一路東京へ ~ 車中マイク故障のため、皆さんひたすら寝入る ~ 18時東京駅着。「7月5日にまた会おうねえ」と解散 そんな旅でした。
楽しかったとともに、「被災者・被災地支援」という目線だけではつながっていけない現実を見たように思えます。
例えば、富岡町をガイドしてくれた田中さん(70才)は、富岡町で生まれ育ち、震災で7ヶ所の避難所を転々とし、現在いわき市に家を建て子供と暮らしている方です。
それ故、案内してくれる所もその説明も、大変心打つものが多く、最後に「今日来てくれた皆さんはとっても熱心に聞いてくれたので、音痴だけど富岡町の町歌をきいてください」と歌ってくれた歌声は、故郷への哀惜に充ちたものでした。
ただ、田中さんは次のようにも語りました。
「原発が来なければ、もしかしたら20年前に富岡町から人が出ていってなくなっていたかもしれません。町議会議員だった母は、富岡町を残したいといろいろな企業誘致に出かけていました。来てくれたのが東電の原発でした。みんな大喜びでした。そして今、原発が来たことで富岡町はなくなろうとしています」
「人によっては私たちのことを“被害者面した加害者だ”と言う人もいます。原発がアブナイ!ということは全く知らなかったとはいえ、言い返す言葉はありません」
田中さんはいわき市で新住民としてまわりの人たちにとけこもうといろいろ活動しているそうですが、「避難者の奴等は働かなくても金入いるんだからいいよな」の視線をいつも感じているそうです。
それ以外にも、「限界集落」「農産物価格の下落」「震災特需による経済格差」など、復興が進むことによる課題が顕在化してきているようです。
「福島とつながろう」と言う時どのようなアプローチをしていったらいいのか、自分の立ち位置が定まっていません。
正直、富岡町の海岸線を見て、その後建築ラッシュで活気付いているいわき市に入ったとき、「よかったなあ」という気持ちと、なんだか足元から力が抜けていくような気分になったことを思い返します。
きっと私の心根に「いつまでも悲惨な被災地、いつまでも悲惨な被災者」を「支援する私」という目線があったのだと思います。そう思わせるバスツアーでもありました。
「福島の今を知りたい」と、開沼君の『はじめての福島学』を読み込んでいる日々です。

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※五月二四日朝日新聞掲載記事より

 

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