『あひるの家の冒険物語』 第2話 その前夜 ―PARTⅡ―

ほどなくしてぼくは役所勤めを辞めることになりました。
相談もかねてその旨久美さん(妻)に伝えると、「やってみたいんだから、やった方がいいよ。ただ、10万円家に入れてね」と言うだけで、家に持ち帰った保育園の事務仕事を続けていました。
退路は断たれたのです。
職場では上司に喜ばれ、同僚や後輩から何で?それで?と、たくさんの疑問符が投げかけられました。そのどれにも明確に答えることはできませんでした。
どうしたって、「コーヒーとタバコとコーラがあればいいや」というぼくが、「有機無農薬の八百屋を、それもリヤカーでやる」というのは、こじつけるのも無理なことでした。
八百屋をはじめるまで2ヶ月位の間があり、朝、3才と5才の子供たちを保育園に送って行って、迎えに行くまですることがありませんでした。
有機農業や安全安心の食べものに関する本を何冊か買ってはみたものの、表紙をながめているだけでした。やったのはヒゲをのばしたこと位です。
それでも、流通センターJACの吉川君や荒田君の集荷のトラックに乗って、茨城や長野の農家に連れてってもらい、話しをきいたり収穫を手伝ったりしたのですが、ただひたすら暑かったのと、おやつに出された手のひらいっぱいの白砂糖と、明け方戻った東京で食べた牛丼が旨かったことが印象に残ったことでした。

霜田君は中央線西荻窪の長本兄弟商会の店先を借りてリヤカー八百屋をやっていました。
1960年代後半~70年代前半にかけて、若者たちの先端的文化活動が2つありました。「自立と連帯」を掲げ学校や街頭をフィールドにした全共闘運動と、「Love&Peace」を掲げ離島や山村をフィールドにしたヒッピームーブメントです。
長本兄弟商会はヒッピームーブメントの人たちによってはじめられた八百屋です。
その仕入部門を担っていた3人が、「もっとたくさんの八百屋をつくらないとつぶれちゃうよ」と独立してはじめたのが流通センターJACで、ぼくが出会ったのは発足間もない頃でした。

暑い暑い夏の無為な日々は、ぼくから体力も気力も意地も見栄も奪いとりつつあり、子供たちを保育園に迎えに行く時間を心待ちにするようになりました。
霜田君は公演が忙しくなり、八百屋は休止していました。
外堀も内堀も埋められたぼくは、開き直るしかありません。
●力仕事をしたことがない。 ●安いだ高いだ金のことを言うのはカッコワルイ。 ●野菜はあんまり好きじゃない。  ●安全な食べ物に関心がない。 ●農業なんて知らないよ。 ●若いネエちゃんは好きだけど、おばちゃんはなあ…
全てはマイナス要素ばかりです。

それでもやらなくちゃいけないのですから、八百屋をはじめる理由(ワケ)を自分に言いきかせるしかないのです。
「29年間オレは、得意なこと好きなことだけをやってきて、そんな自分を変えたかったんだろ。苦手なことをやってみるというのもいいんじゃないか」
「社会が大きいこと、速いこと、システマティックに向かっていく中、その真逆のことをやるのは、もしかしたら新しい価値が見つけられるのじゃないだろうか」
「百姓が土を耕すように、街をリヤカーで地を這うことで翔べるんじゃないだろうか」
「アヒルも昔空を飛んでいたのに、人間に馴らされることで飛べなくなったという。オレたちも社会のシステムに馴らされることで翔べなくなっているんじゃないか」
「そうだ!空を飛び回る夢みて、八百屋の屋号はあひるの家としよう!」
元職場の同僚や後輩たちが、刷りあがった3000枚のチラシを手分けしてポスティングしてくれたり、野菜保管のための倉庫を作ってくれたり、半分に切った丸太に「あひるの家」と彫った看板をプレゼントしてくれました。
そして、秘かに「1978年9月5日からはじめて、翌年の9月4日にやめよう。修行のつもりで」と、固く決意したのでした。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です