『あひるの家の冒険物語』 第3話  全ての道はリヤカーに通じる

ポスティングした3000枚のチラシに30件余りの問い合わせがありました。
中区1・2丁目を月・木、東区1・2丁目を火・金、東区3・4丁目と府中北山町を水・土と、3コースに分けてみました。
朝、子供たちを保育園に送っていって、洗濯物を干したりしていると、9時半位に野菜が届けられます。
野菜の多くは茨城県玉造町や北浦町の数軒の農家がメインで、ほうれん草や小松菜は新聞紙でくるんで稲わらで結んでありました。
お米は30kg袋、味噌は5kg袋、卵は10kg箱で、加工品は1.8ℓ瓶の醤油・酢・ソースで、あとベニバナ油・天塩・お茶でした。
前日の野菜の手入れをしながら積み込みの開始です。気分を奮いたたせるため、大音量でレコードをかけます。
井上陽水の『氷の世界』、吉田拓郎の『落陽』、岡林信康の『わたしたちの望むもの』、ホルストの『惑星』、ベートーベンの『英雄』などをよくかけていましたが、バッハとモーツァルトはダメでした。
積み終わるとコーヒーをいれ、庭先に干してある赤・黄・緑・オレンジ・白などのタオルから「今日はアカだ!」とか言って頭にかぶります。
10時半、出発です。家の路地を出ると走りはじめるのです。一軒寄ってまた次の一軒まで走ります。その間「ヤオヤ~、ムノーヤクノヤオヤ~!」と声を張りあげつづけるのです。
ぼくが走った理由は、霜田君のように「体を鍛える。街にくり出すパフォーマンス」ではなく、知り合いと目を合わせたくなかったのと、「息せききってお客さんのところに駆けこんで、その勢いで売る」しかなかったからです。
それでも「本当に無農薬なの?」「まっすぐなキュウリはないの?」「このトマト真っ赤じゃない。熟れすぎてんじゃない?」「どうしてこんなことしてんの?」「エライわねえ」などの問いにこたえられず、「この大根辛い?」ときかれ、辛いと買ってくれるのかと思って「ウン、辛いよ」と言ったら「辛けりゃいらない」と言われたり、「目方?メカタはタカメよね」と去っていくのを「なるほどなあ、いいこと言うなあ」と感心したり、勢いではどうにもならないことばかりでした。
そんな中、雨の中向うからやってきた上品な御夫婦が「あなた何やってんの?」と声をかけてくれ、「あの角を曲がったところだから、今度寄りなさい」と言ってくれたり、マンションの管理人さんが館内放送を使って案内してくれ、エントランススペースを使わせてくれたり、老夫婦が買う物がないのにお米を30kg買ってくれたり、「寒かったろう。家に入って休んでいけよ」と言われて上がらせてもらうとお酒と刺身が食卓に並べられていたり、「あらあら、汗だらけじゃない。シャワー浴びていったら」と魅惑的なお誘いがあったり……。
それでも毎夜眠りにつく時、「明日目が覚めたら嘘だったということにならないだろうか」と思っていました。
3ヶ月が過ぎた12月の半ば、コースを回りいつものように大学通り増田書店の前で野菜を並べていました。よく元職場の同僚や後輩達が勤め帰りに顔を見せるのですが、今日は居ないようです。吹き抜ける風に道行く人たちは足早に通りすぎていきました。
Tシャツにヤッケ、長靴にジーパンのぼくは、駆け込んできた火照りがまだ残っていました。路肩に腰かけながら立ちどまる人に売りながら、本屋さんの灯りをながめていました。何人もの人が足早に店内に入り、何人もの人が襟をかきあわせながら出ていきました。
風も強くなり通りかかる人もまばらになってきたのでリヤカーに野菜を積み込んでいる時、ふっと「そうか~。おれはもうこっち側にいるんだなあ」と思ったのです。
その気付きは家に向っている間もどんどん広がり、体や心のすみずみまでしみこんでいくようでした。
カラカラとリヤカーは快いリズムを刻んでいました。

次の日からぼくはお客さんに「実は……」と言いはじめたのです。
「実は、有機農業も無農薬も添加物も、八百屋という商売も関心がないんです……。ただ、時間通りに来ることだけは約束します」
お客さんはあきれたり苦笑いを浮かべたり、それでも「あんたが持って来るトマトおいしいわよね」とか、「そうだと思った。だってキヨツケ!しないと買えない感じだったもの」とか、「この里芋、揚げるとおいしいわよね」とサポートしてくれるお客さんもいました。ぼくの出来ることは、街の時計屋さんになることと、リヤカーの走りに磨きをかけることです。
じゃが芋・玉ねぎ・人参各々5kg、大根10本で15kg、キャベツ10kg、みかん10kg、白菜・りんご・トマト・キュウリ・卵・醤油……150kg~200kgの品物を載せるのです。
5cmの段差を乗り越えるには、上り坂はどの辺りから助走をつければいいか、コーナーをスピードをおとさずに曲がるには、停まるには、そして荷物が落っこちない積み方は……。次々と課題がもちあがってきます。
「実は……」からしばらくすると、急に売れはじめたのです。ポイントに集まって来るお客さんもふえ、お客さん同士の話しも弾み、笑い声が弾けます。ぼくはそばでヘラヘラしながら量ったり売ったりしていました。
その頃から人伝にきいてきたリヤカー八百屋志願者がひとり、またひとりとやって来て、併走するという事がおこるのです。
世田谷で『ごんべえのお宿』という保育所をやっている小野田君と滝川さんが併走し、「こんなに売れるんだ」と感心し、「子供を育てることと食べること」ということで、『ごんべえの
八百屋』と『もんぺの八百屋』という屋号で2軒のリヤカー八百屋を4人ではじめたのでした。
国立でも仁君と武重君の2人がやってきて八百屋をはじめました。
農家の納屋に使わなくなってほってあったリヤカーをもらってきて、各人デコレーションすれば完成です。
横笛を吹きながら、ギターをかきならしながら、紙芝居をやりながら、飲み屋をやりながら、昼間は……。
リヤカー八百屋は始めるのあたっても始めてからも、ほとんどお金はかかりません。リヤカーはタダだし、人力ですからランニングコストもかかりません。自営業なので働き方や売り上げの制約がありません。「ガンバッテ!」などと、お客さんから評価されることもあります。
そして何より八百屋なので食べられるのです。
たった8ヶ月余りで13軒15人のリヤカー八百屋が誕生し、全員が20才代でした。

昼御飯を食べる間もなくなったぼくは、保育園のお迎え時間ギリギリにリヤカーで駆けこむのです。雨の日は全身ビショ濡れで、暑い日は真っ赤な顔で。
子供たちは友達に「おまえんちリヤカーある?乗せてあげようか」と自慢気にリヤカーに乗りこみます。友達一人一人を家まで送っていって、家に帰ってある野菜で夕食の準備です。夕食の支度をしながら、子供たちは今日保育園であったこと、ぼくは今日八百屋であったことを喋るのです。
休みの日に子供たちと歩いてみると、ぼくが一日虫のように這いずりまわっているエリアは、直線距離で5分もかからないところでした。
週末、今週分の支払いのため、1週間分の売り上げを数えるのです。缶に入ったコインを机の上にばらまいて、子供たちと1枚2枚3枚と積み上げていきます。支払い分を除いたこの山が、1週間分の稼ぎなのです。その額は、勤め人をやっていた時を上回ることも多くなったのです。
1年が1日のように過ごしてきたぼくにとって、リヤカー八百屋の日々は1日が1年のようでした。
胃薬が手放せなかったぼくはご飯を3杯も食べ、風邪をひくこともなくなりました。マイナス要素と思っていたもののひとつひとつがプラス要素に転換しつつありました。
そしてぼくは、「全ての道はリヤカーに通じる」と呟くのでした。

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