『あひるの家の冒険物語』 第15話  極北の大地にポランの旗をおったてる ―ともかく始めよう!―

―ポラン広場北海道発足―

1986年4月、千歳空港から室蘭本線に乗り東室蘭駅で降りました。
積もっていた雪が溶けはじめていて、歩くたびに足元には黒々とした土が顔を出し、むせかえるような土の香りが立ちのぼってきたのです。
「春だ、ついに春がきた」と、メモを見ながら歩いていった先にその店がありました。店先で猪狩君が待っていてくれました。
「いやぁー、ごくろうさんです。実は困った事が起こってんですよ」とニヤニヤしながら、まだ何も内装されていない店の中に入っていきました。
店の奥から女の人が出てきて、「わたしは何もきいていないからね。話すなら店の外でしてね!」とえらい剣幕で外に追いだされたのです。
店の外で立ち話しといっても寒いので、2階の猪狩君の部屋にあがらせてもらいました。
「いやぁ~、朝から大荒れですよ。包丁は飛ぶわ皿は割れるわ、命がけですよ。イヒヒヒ」と、前歯が1本欠けた顔で笑っているのです。「サァ、あんたのお手並み拝見」と言っているようです。
猪狩君はポラン広場の八百屋『蟹屋』のスタッフとして川崎で働いていて、富盛さん(女の人)は横浜で反原発や自然保護の活動をしていて、その中で知り合った仲だそうです。富盛さんが地元に帰って自然食品店を開くので手伝ってほしいと言われ、やってきたということです。
「どうせならポランのネットワークの八百屋の方が面白いんじゃねえの」と連絡してきたのですが、富盛さんの説得・同意ができていなかったのです。
その夜は富盛さんのお宅に泊めてもらうことになりました。
「よく東京から」と、お母さんがテーブルいっぱいの料理を作ってくれ、お風呂もよばれたのですが、富盛さんは顔を出しません。ぼくは、いつ「出てってよ」と言われるか落ち着かないのです。
「保枝~、失礼でしょ、せっかく来てくれているのに」と、お母さんが幾度か声をかけてくれ、ふくれっ面の富盛さんがテーブルについたのです。
自己紹介やポラン広場の説明をさせてもらうのだけど、ぎこちない間が続くのです。隣で猪狩君はヘラヘラニヤニヤ笑っているばかりです。
お互いの学生時代の話しになり、その頃ぼくのバイブルだった奥浩平(学生活動家・遺稿集『青春の墓標』が当時の学生の共感を得た)の話しをすると急に体をのり出し瞳を輝かせ、表情がほぐれていったのです。
道内に売ってくれる所がないから、じゃが芋・玉ねぎ・人参・南瓜の「カレーライス畑」しか作れず、「百のものを作れる百姓になりたい」と八百屋の誕生を待っている百姓のことや、従来のピラミッド型組織ではなく、フラットでパラレルで小さくて大きなネットワーク集団づくりを一緒にやっていきたい、といった話でした。
一番盛りあがったのは、札幌から高校2年で転校した時の話しでした。
住んだ所が歌舞伎町から10分のとこで、真夜中になると肌もあらわなネエチャンたちが帰ってくるのです。兄貴と2人、アパートの2階の窓を少し開けて覗くのです。「トウキョウはスゴイな~」と、16才と18才の兄弟は熱い吐息をもらしていたという話しでした。
翌朝、「ポラン広場北海道をつくっていこう」と約束して札幌へ向かったのです。5月、ポラン広場の八百屋として『ぐりんぴ~す』がオープンしたのです。
札幌では流通センター『HAVE札幌市場』をはじめようとしている滝沢君(通称“座長”)と、只今免許取得中で八百屋『らる畑』を開業予定の橋本早智子さんが待っていてくれました。
滝沢君はかつて唐十郎赤テント七人衆の一人として活躍し、今は劇団『極』の座長として道内で名高く、「脇の下に翼をもったポランという鳥をみたいから」とポラン広場に加わってきたのです。一人でリヤカー八百屋をやっていた早智子さんは、「冬場も八百屋をやりたい」とトラックで移動販売に挑戦しようとしていました。
流通センタースペースは同時に劇団『極』の稽古場にもなっており、滝沢君はじゃが芋やキャベツや醤油にかこまれたスペースに寝袋を持ちこんで寝泊りしていました。
1986年8月、ポラン広場北海道が発足しました。1センター2販売グループ計5名で、センター売上げは月120万円位、スタッフの月取り分は3万円~5万円位でした。
翌年には札幌で『わいわい』『グリーンハウスパンプキン』『りんご村』、江別で『ども』、苫小牧で『どんぐり屋』、滝川で『やなさん商会』と拡がりをつくり出していったのです。
秋冬の「カレーライス畑」の道外送りを一手に引き受けたことで、ポラン広場東京・埼玉・関西の伸びに合わせ、HAVEセンターの経営も一息つくとこまで行きついたのです。

―その頃あひるは―

北海道から戻るとあひるの家の店先には甘夏・はっさく・伊予柑・ネーブル・タンカンなどの柑橘類や、ふじりんごなどが色とりどりに並べられていました。店内から喚声がきこえてくるのです。
あひるスタッフと何故かお客さんをまじえ、ジャンケン大会がはじまっていたのです。尋くと、お客さんで国立在住の元歌手の百瀬さんのお宅に誰が配達に行くか決めているのだといいます。スタッフ折茂君が勝ったようです。
「あの~、ちょっとアパートに帰ってきていいですか。シャワー浴びて着替えてきたいんですよ。ここ3日位、久木原さんの所に泊まっていたもので」と、Tシャツをクンクンとかいでみせるのです。
配達から帰ってきた折茂君は、「お母さんしかでてこなかった」としょんぼりしていました。
この頃のスタッフは全員20才代~30才代(久美さんとぼくを除く)でした。鹿児島でバーを営んでいて、駆け落ちして国立に住みはじめた久木原君。久木原君の竹馬の友で服飾メーカーに勤めていたスタイリッシュな東元君。東元君の同僚で百姓志向(連れ合いの悦ちゃんは)、夢市場センターに勤めた清水君。サイボーグと言われる程疲れというものを知らない鈴木君。在国立、出入りしているあいだに大学4年生で中退、母に泣かれた折茂君。ジャックと豆の木の澄ちゃん、恵理ちゃん、みっちゃんも20才代前半で、アルバイトスタッフは10才代の学生も多くいました。フレキシブルでパワフルでスタイリッシュなあひるの家に一新されていきました。
お店は来店客数が200名を超える日も出てきて、狭い店内がいつもごったがえしている状態でした。月売上げが優に1000万円を超えつづけ、それとともにぼくたちがやってきた事が社会に評価されつつあるのだと、自信と確信を持ちはじめたのです。
翌年の「あひるの家10周年記念連続イベント」のプランが話しはじめられ、メインイベントは「あひるの家新店舗オープン」でした。
『ポラーノの広場』(宮沢賢治作)の最終章の「あしたも元気のでる広場」「きっとできるとおもう。なぜなら、ぼくたちは今それを考えているのだから」を胸に、極北の大地をポラン広場の仲間たちは今日も駆けつづけているのだろうし、ここあひるの家ではその一端が実現しつつあるのだと思えるのでした。

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