いよいよ今度の日曜日に迫った魚屋さん海野マサトヨくんによる「第二・四日曜日は海野水産あひる支店開店」ですが、それに先だってある一冊の小冊子を改めて店頭でも積極的に配布再開しています。
お兄さんの魚屋さん海野和豊くんが毎週日曜日あひるの店頭でお魚を売っていた頃で、もう10年以上前にあひる通信で3回にわたって連載して好評だったものを6ページにまとめた『魚屋さん海野君のおいしい魚が届くまで物語』です。
今ではエラソウに「弟に魚屋のキビシサを教えてやってください」とお兄さん面していますが、海野くんにも魚屋修業時代はあったわけで、そんな若かりし頃の和豊兄さんの旧筑地市場で毎朝繰り広げられる丁々発止のやりとりなどを面白おかしく当時代表だったスタッフ狩野が書いています。
只今売り出し中の魚屋さんマサトヨくんの宣伝も兼ねて店頭配布中ですが、連載当時の全3章を本ブログでも3日間にわたって再掲載したいと思います。
以下
第1章【築地の海は荒かった】
魚屋になって9年になります。
その前6年間は金属加工会社で部品の設計や営業をやっていたのですが、どうもデスクワークは苦手なようで、よくトイレで眠っているとアナウンスが入って怒られました。
オヤジが魚の運送や販売をやっていたので、小さい頃から築地にはよく連れて行ってもらって、カレーライスやハンバーグなどおいしいものを食べさせてもらったり、一緒に場内を歩いたりして、築地の活気はとても好きでした。
だから会社を辞めようと思った時、「魚屋をやろう!」と思うのは自然なことでした。
友達からは「魚屋なんて今どきはやらないよ、みんなどんどん店閉めてるゼ」「朝早いし、魚臭いからもてなくなるし、もうからないし、やめた方がいいよ」と否定的な意見ばかりでした。
でも自分の中には、オヤジと行ったあの築地に行って自分が仲買と丁々発止をやって魚をトラックに積みこんで窓を半分位あけて明けてくる街を疾走する姿がイメージされ、ワクワクするばかりで聞く耳はもたなかったですね。
ただ一つオヤジ達に要求したのは「お店をもつこと、会社組織にすること」でした。
オヤジは高齢化してきた近隣の魚屋の代行仕入れと料理屋への卸しをやっていたのですが、ぼくとしてはお客さんに直接売ることをしたかったので、自宅の庭にお店を開くことになりました。
今もそうですが、海野水産としてオヤジは運送と卸し、ぼくは店販売と卸しと各々の稼ぎを分けています。
サテ、朝4時に青梅の自宅を出て4tロングのトラックを走らせていく訳です。ぼくが運転してオヤジと2人で1時間半かけて築地に到着するのです。
「よ~し、今日からオレは魚屋だ!いい魚を安く仕入れてガンガン売るゾ」と身体中力が漲ってきます。
場内に入ろうとするトラックが何台も並んでいて、その後ろに着けて順番を待ちます。もう場内は人と車でごったがえしています。
前の車が入って、サテ入ろうかとアクセルを踏もうかと思って前を見ると、台車やターレット(運搬車)や軽トラックや荷物をかついだ人がスレスレのところを行きかっているのです。この流れが切れたら入ろうと思っているのですが、誰もぼくのトラックの方を見る人もいなければ、道をあけようとする人もいません。
クラクションを鳴らしてみても、ウルサソウに見上げる人はいても動きをとめる人はいないのです。そんなことをしていると後ろのトラックから「ビービー」とクラクションを鳴らされ、ただ焦るばかりです。やむなくオヤジに運転をかわってもらって場内に入れた訳です。
漲っていた力がいっぺんにへこんでしまって、疲れ切ってしまったのです。その後2ヶ月位オヤジにお願いしていました。
2ヵ月後、「もう車にぶつけてもいいや、人ひいたっていいや」と思い切り、車を発進させると道を開けてくれたのです。
この日、ぼくはようやく魚屋さんのスタートがきれたのだと思います。
サテ、ここから新たな闘いがはじまるのです。