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『あひるの家の冒険物語』 第11話  ポラン広場に集まって! ―その1―

1984年2月25日、街のあちこちに溶けきらない雪が残り、隣接する井の頭公園の池をわたってくる風が頬をひきつらせる晴れわたった日でした。
吉祥寺にある武蔵野公開堂で『ポラン広場交流会』が催されたのです。『プロジェクト・イシ第2回全国大会』のためにキープしていた会場でした。
「ポラン広場発足をアピールしよう」ということで開催することにしたのです。350名定員の会場に、ポラン広場スタッフ25名を除くと50名程の参加がありました。
農家の参加は茨城土浦常総センターの桜井さんたち4人でした。パン屋、こんにゃく屋、豆腐屋、塩屋、本屋などが次々と登壇し、長かったり短かったりのアピールを繰り返しました。
舞台の壁には2枚のムシロ旗が掲げられ、赤字で「いつも心にムシロ旗」、黒字で「有機流通のネットワークを拡げよう!」と記されていました。
常総センターの桜井さんが登壇し、「ぼくはこういう舞台にあがるのはお断りしてるんです。生協なんかの集まりで舞台に登らされて、生産者アリガトウみたいな紹介をされるのだけど、おれたち飾り物じゃないんだと思っています。おれたちは消費者や流通販売者と対等につき合っていける生産者集団を目指していきます。これからなんだろうけど…。ポラン広場のみなさん、ガンバッテください」と、会場を見回し、戸惑いを浮かべながら話しをおえました。
関西センターの関君もやってきて、「関西センターはJACの子会社になるつもりも、単なる卸会社になるつもりもありません。各地域を結ぶ流通センターの一つとしてやっていきたい」と、ポラン広場ネットワークに参加することを表明したのです。
終了を2時間早め、4時に閉会したのです。会場は最後まで暖まることはありませんでした。
吉祥寺駅前の焼鳥屋『いせや』の一室に場所を移つして、30名程で交流会をやりました。
「清水で『無農薬野菜を作る会』というのが駅前でバザーをやってるってよ」
「多摩でも何人か有機で野菜作っているのがいるらしいから行ってみよう」
「パンだから牛乳どっかにないかな?」
「お菓子って売れるんだね。うちの子供たち大喜びだよ」
「関西と埼玉に行かなくちゃな。いつにするか」
・・・・・・・・・・・・ 話しは尽きず夜が更けていったのです。

農民グループ常総センター代表の桜井さんの所へ訪ねたのは、凍てつく1月の下旬でした。
「あんたらか?JACと別れたっていうんは」と笑顔で迎えてくれた桜井さんは、さっそく畑に連れていってくれ、幾人もの百姓たちに紹介してくれたのです。
日が暮れようとしている農家の土間には火の気がなく、熱いお茶を飲んでも体の震えはやむことはありませんでした。
桜井さんは、「誇りの持てる農業と農民をつくりだす」「流通販売や消費者のバイイングパワーに屈せず、対等の関係をつくっていく」etc.etc. 常総センターの姿勢が記された宣言を読みあげました。
「あんたらJACと違うって言うけど、JACに出せば高く売れるっていう風潮を作ったのは、あんたたちにも責任があるんだよ。噂だけど、米や味噌や野菜の袋を入れ替えてJACに高く出していたって話しもきこえてくるんだよ。そういうのは、百姓を駄目にしちゃうんだよ」
「あんたら、新しくやるならその辺りを本気で考えなくちゃダメだね。帰って皆でよく話してから返事くれよ」
帰ろうとするぼくたちに、「人参ないんだろ。もっていけよ」と袋に詰めた人参を車に積み込んでくれ、「腹へったろ」と寿司屋に案内してくれました。
「常総センターは接待されもしないし接待もしないけど、今日は何か特別だからおごりだ。さあ、食おう」
酒とお茶と寿司で体が温まってくると、桜井さんの口も緩んできたのでした。
「おれはさ、本当は百姓やりたくなかったんだよ。長男だから仕方なくやってるだけで、自信もなかったしね。結婚したかった女の人が2人いてね。1人は両親から、1人は本人から断られたんだよ。そんな将来性のない人とは結婚できない、ってね。おちこんで家を出てサラリーマンになろうかとも思ったなあ」
「でもなあ、気がついたんだよ、おれ自身のことじゃねえかって。そうだ!食べていけて、仲間ができて、夢のある農業やってやろうじゃねえかってね。それが有機農業だったし、常総センターだったわけさ」
この人は本当のことを言っている、この人は信じられる、と強く思ったのです。
桜井さんに見送られて6名のポランスタッフは、真夜中の国道を東京に向かったのです。さっきまで冷たかった風が、ほてった頬に心地よく感じられた夜でした。

あひるの家では、入荷が少なくなった野菜の棚を、お菓子を主に自然食品メーカーの品物が並べられたのです。その色鮮やかなパッケージは、店内を華やかに彩ってくれました。
それでも、生産者や製造者と出会う度に、ひとつひとつつながりのある品物がふえていったのです。
常総センターのほうれん草・小松菜・ニラ・人参・蓮根などの野菜、埼玉大同ミネラルパン・ピエールブッシュ・花小金井丸十製パンの国産小麦・天然酵母パン、横浜豆彦高田さんの国産大豆・天然にがり豆腐、群馬なんもく村工藤さんのこんにゃく・・・、出会いのエピソードなどをまじえ、店頭で山盛り販売がはじまるのでした。
その頃、あひるの家には谷保在住の20才代半ばの桑田君が加わったのです。指環やネックレス、ブローチなどを作って街中で売って生活していた桑田君にとって、「仕事」は初めての経験ということでした。
だから、KUWATAエピソードを2つ。
―エピソード1―
朝、遅刻することが多かった桑田君。朝仕切りをしているとこに駆けこんできて、いきなり土下座をして「スミマセン、スミマセン」と頭を下げつづけるのです。
ウンザリして「いいから早くやろうゼ」と言うと、店の奥に行ったきりなかなか出てこないのです。覗いて見ると、昨日作ったまかない飯をかきこんでいるのです。
「夕べ彼女とケンカして飯食ってないんすよ。スミマセン」
―エピソード2―
朝、店に行くと何か違和感があるのです。相川君も桑田君も軽快なフットワークで動いています。昼頃、店の奥の方が買い物に来られ、「今朝、スゴイ音がしたけど、何かあったの?」と尋くのです。
桑田君と相川君にきくと、5時頃店に来て、棚を全部隅に寄せて、2人で踊っていたとのことでした。
「家ではなかなか大きな音出せないし、踊れないし、音もれてたんですね。スミマセン」
一方、レストラン『ジャックと豆の木』は、オープニングスタッフの大森君から澄ちゃんにチーフがかわりました。エリちゃんミッちゃんのスタッフ以外に、音大や美大の学生たちがアルバイトで入るようになり、店はいつも華やかで笑い声にみちていました。
若いお客さんが急にふえ、一橋の学生や独身先生や八百屋、百姓などもよく顔を出すようになりました。
「今日、エッちゃんいる日?」と照れ臭そうに電話してきた一橋の先生は、「うちはキャバレーじゃないんだからさ」と一喝され、しょんぼりしていました。
あひるの家もジャックと豆の木も、一足早く「そこにいけば元気の出る広場」を、男と女の恋のさやあてを原動力に実現しつつあったようです。
JACからの全ての物流が止まるまであと20日。どこまで店の棚を充たせるか、一層拍車がかかったのです。
そして、その後には幾多の「戦記」が待ちかまえていたのです。

『あひるの家の冒険物語』 第10話  宮沢賢治の物語がおわったところから、わたしたちの物語をはじめよう!

1983年11月5日、国分寺のプロジェクト・イシの事務所には、茨城の百姓代表の野原さんや茨城のイシ農場の近田君や札幌の八百屋『夢屋』の大堀君や、まだ癒えていない脚をひきずりながら関西から関君も駆けつけていました。
プロジェクト・イシの今後を決定する採決会議が開かれようとしていました。「ああ」とか「やあ」とか声を掛け合うことはあっても誰もが言葉少なで、頬は紅潮し視線が定まらない様子でした。
「それではプロジェクト・イシ採決会議をはじめます。4つの案がでているので、過半数をこえた案がこれからのプロジェクト・イシの方向となります」と口火を切ったぼくの声も指先も震えていました。

(一案)執行部総辞職・イシ再建委員会設置 ― 否決
(二案)イシを交流の場に ― 否決
(三案)加工品を主にした新センター設立 ― 否決

「アレ?」「どうして?」「なんで?」というつぶやきが広がりました。
残るはJAC代表の吉川君提案の「イシ解散案」だけになりました。吉川君から「私を信じてください」というペーパーが配られました。

(四案)イシ解散 ― 可決

イシ継続グループが「イシ解散」に挙手することで可決採決ということになったのです。
これまで採決のたびにメモをとっていた吉川君は、手をとめ眼を真っ赤に充血させながら、帰ろうとする一人一人に「JACを信じて」「オレを信じて」と訴えていました。
多かれ少なかれ、八百屋は勿論のこと百姓たちや豆腐屋やパン屋や・・・も含めて、個人やグループでは為し得ない夢や拡がりを、プロジェクト・イシという共有のテーブルにのせることで実現してきたのです。
そのテーブルが今消え去ったのでした。
6年前、ひょんなことからはじめたリヤカー八百屋でしたが、しばらくすると「いつやめよう、いつやめよう」と思っていたぼくに、「八百屋でいこう!」と思わせたのはプロジェクト・イシというテーブルでした。
学生時代憧れていた活動家の女の人に「あんたは兵隊よね」と言われヘラヘラしていたぼくが、「遠くまでいくんだ!」と主体的になれたのもプロジェクト・イシの活動の中でした。
プロジェクト・イシの幕引きのためだけに代表に選ばれた結果となり、吉川君や荒田君やナモさんたちに「ハメラレタ?」と悔しい思いでした。
もっと遠くまでいくために何をしたらいいのか、一人一人が自らに問うページが開かれたのです。

イシ解散にともなってJACから通告文が送られてきたのです。

1)生産者とのつながりはJACの専有事項なので、訪問・取引は禁止する。

2)JACと名を冠した関西・埼玉のセンターや小売グループは、直ちにJACの名を外した名称に変更すること。

3)これ等に違反した場合は、直ちに取引を停止する。

というものでした。
JAC加工品部を退職した小野田君をはじめとした5人が100万円ずつ出し合って、多摩市関戸の多摩川べりに『夢市場共同流通センター』を発足させ、東京の4つの販売グループ(KIVA-青梅・苫屋-武蔵小金井・結-阿佐ヶ谷・あひるの家-国立)と12月、新グループ結成会合をもったのでした。
「JACの干渉を避けるため奥多摩にしたから」と連絡があり、あひるの家からは免許取りたての久美さんの運転で、薄暗くなりはじめた山道を相川君とぼくと3人の子供たちを乗せて走っていったのです。
「街中だってたいして走ってないのによくわからない山道をいくんだから、着いた時はもうクタクタ。会議どころじゃないわよ」ということでした。
降りたったところは山間の廃校になった学校みたいで、広いグラウンドがありました。
「なにもこんなところでやらなくたっていいじゃないか。これじゃあ追いつめられた連合赤軍みたいじゃねえかよ」と思ったものでした。
ホールの半分には既に布団が敷かれ、子供たちが寝転んだり、走りまわっていました。大人20名、乳幼児を主に子供13名の大にぎわいです。
車座になりながら話し合いを進めるのですが、赤ちゃんを抱っこしながらの参加も多く、話しの途中で「ちょっと待って。おむつ替えてくるから」「お腹すいてるみたいだから、おっぱいあげてくるワ」と席を外す者も多く、話しが進んだかなと思った矢先、「うんこー、うんこでちゃうー」「オモチャ取られたー」と泣き叫ぶ子や、「腹へったー」と訴える子や、会議の体をなさず、大家族キャンプの様相でした。
夜も更けて子供たちもおおかた眠りについた頃、「これだけは決めておこう」という話しにはいったのです。
グループの名称についていろいろ出し合っている時、KIVAの神足君が一冊の本をとりだし、「これがどうだろう」と読みはじめたのです。宮沢賢治の『ポラーノの広場』の最終章の一節でした。

そうだ、あんな卑怯な、みっともない、わざと自分を誤魔化すような、そんなポラーノの広場ではなく、そこへ夜行って歌えば、またそこで風を吸えば、もう元気がついてあしたの仕事中からだいっぱい勢がよくて面白いような、そういうポラーノの広場をぼくらはみんなでこさえよう。
ぼくはきっと出来ると思う。なぜならぼくらがそれをいま考えているのだから。

各々の役割も決定しました。
代表-狩野(あひるの家)、事務局長-木浪(結)、生産企画-神足(KIVA)、流通企画-鴻江(苫屋)、加工品企画-小野田(夢市場)、各グループのスタッフ全員が各委員会のメンバーともなりました。
そして、農家に依頼している作付野菜が終了する1984年3月末日をもってJACとの取引を終了する旨通告することになりました。
窓の外をながめると、凍てついた漆黒の闇の中に満天の星が輝いていました。

年が明け1984年、ポラン広場5グループの代表は茨城の農家を訪ね、イシ解散の経緯と、JACと分かれポラン広場を発足したことを説明し、謝罪とともにポラン広場への出荷をお願いしたのです。
「まあなんだ、一つの幹からできた二つの枝みたいなもんだっぺ。JACに出してポランに出さないってわけにいかんめえよ」
別の農家が、「どっちも良く知ってる奴ばっかだしな。おれたちはこれまでどうりってことでどうだんべか」と発言し、他の農家も「うんだ」「そうすべえよ」とうなずく姿があちこちで見られました。
ホッとした空気が流れ、「がんばるべえ」「よろしく」と杯があげられたのです。
ところがだったのです。東京に戻り、お礼とこれからのことを打ち合わせしようと連絡すると、「JACがなあ…」と言葉を濁しました。
「ポラン広場に出荷した農家の野菜はJACは扱わない」と連絡してきたとのことでした。
JACがつき合っている80名程の農家のうち、果物と北海道の農家(JAC単独では扱えない)以外誰も出荷してくれる見込みがなくなり、新しい生産者探しが切迫したものになっていくのでした。
同時にポラン広場グループへのJACからの出荷制限がはじまり、あひるの家の野菜の棚は日を追うごとに淋しくなっていくのでした。
加工品担当の小野田君は、これまで扱うことを避けていたお菓子を主にした「自然食品」を緊急避難的に導入しながら、豆腐・牛乳・パン・味噌・醤油・魚と次々と製造者を見つけ出しコンタクトをとり、企画のテーブルに提案していきました。
3月末日まであと2ヶ月、5グループの代表は1台のワゴン車で東京~茨城~山梨~静岡~愛知~北海道へ、生産者や製造者との出会いを求めて駆けつづける日々が続くのでした。
この年、東京は雪の多い冬を迎えていました。消えることのない雪に、また重たい雪が降りつもっていきました。
店先で雪をかきながら投げ上げた雪片は、陽の光にキラキラ輝きながら舞い消えていきました。
頬をなでる風が春が近いことと、雪をとかす水音がきこえてきこえてくるようでした。

『あひるの家の冒険物語』 第9話 暗転 第二幕 ―長くて暑い夏がやってきた―

関西グループの事故対応から戻ってきてから1週間後の1983年9月10日、プロジェクト・イシの全体会議が開かれました。国分寺のイシ事務所には70名程の人が集まり、入りきれない人は窓の外から会議に参加していました。
「吉川さん(プロジェクト・イシ前代表・JAC代表)から“爆弾発言”があるらしい」という噂が流れていたからです。

2ヶ月前の7月1日、JACからの野菜の納品伝票とともに、吉川君の“プロジェクト・イシ代表辞任届”が添付されていたのです。
「イシ代表の任はあまりにも重いものでした。今後はJACの仕事に専念することで、イシの拡がりや八百屋の発展に尽くしていきたい」という内容でした。
真意を確かめたくて吉川君に連絡をとるのだけど、つかまりませんでした。
「これは何だ?」「何があった?」「あの吉川さんがここまで追い詰められたのには訳がある筈だ?」「執行部内の確執ではないか?」・・・・・・の声があがりはじめていくのでした。
ぼくにとって吉川君は、最も信頼し尊敬していた人でした。関西、埼玉でのセンターづくりや、プロジェクト・イシ全国大会などをともに推し進めてきた同志でした。
吉川君の唐突な“辞任劇”はよく解せなかったのですが、彼の果たせなかったことを引き継ぐことが感謝の気持ちになると思い、8月5日のイシ全体会議で代表に立候補し、選任されたのです。小学、中学の学級委員を含め、自ら手を挙げたのは初めてのことでした。
1週間後の8月13日、関西グループの事故がおこり、2週間余り大阪にとどまることになってしまったのです。
“爆弾発言”の噂はきこえていたので、大阪から何度も電話をかけるのですが、吉川君がなかなか電話口に出てくれず、ようやく出ても「そんなボス交渉みたいなことはやらない。9月の会議でみんなに直接話す」と言うばかりでした

当日、吉川君からは「プロジェクト・イシ会員の全ての人々へ」という15ページにわたる文章が提出されました。おおむね二つの点についての疑義が記されていました。

一 現執行スタッフの言っていることとやっていることの矛盾。
二 プロジェクト・イシの活動の中から発足したJAC関西、JAC埼玉のセンターの株の55%をイシが保有するのは当然だと思うが、JACの株は荒田、金田、吉川の3人で保有している訳だから、JACの株も55%イシが保有すべきだという考えには反対である。もしこれをおしすすめるなら、JACはイシを脱退する。

というものでした。

代表であるぼくへの批判は以下の4点でした。

(1) “連帯”を語りながら自分のグループでは次々とスタッフが辞めてゆき、亡くなった者までいるという現実は、“連帯”と言いながら“専制”を強いた結果なのではないか?
(2) 初代イシ代表(荒田君)にイシ代表、JAC代表の兼務を批判し辞任を迫ったのに、自分はあひるの家代表、JAC関西代表、プロジェクト・イシ代表と3つも兼務していることの矛盾をどう考えているのか?
(3) “都市と農村の連帯”を唱えながら、農場の経営、運営が行き詰まると「つぶしてしまえ」と言ったことの矛盾をどう説明するのか?
(4) 本来プロジェクト・イシが負うべき2つのセンターの株購入代金、農場の土地返済金等の600万円をJACが肩代わりせざるをえなかった同時期、あひるの家の2Fを400万円かけてレストランにしたのは、“みんな”と“自分”の使い分けではないか?

吉川君の文章は次のように結ばれるのでした。

「理念を築く為の現実を担う努力と責任感と自覚がない中での渦の拡がりは、自壊を招くだけなのだと思います。今は原点としての八百屋の現場に立ち戻るべきです」

10月1日、全体会議が開かれ批判された執行部スタッフから、50ページに及ぶ回答・反論・改革案文が提出されました。しかし、この反論文がまともに検討されることはありませんでした。
本来なら、吉川君の疑義に対して、事実と事実をつき合せて、至らないところを解決する方法を探るというのが議論の進め方だと思うのですが、そうはならなかったのです。
この1ヶ月の間に、個人的だったりグループ間だったり、様々な集まりが繰り返されていました。色分けができてしまっていたのです。
「吉川さんが言っているように…」「そうは言っても本当はちがうんじゃない。オレはいなかったけど」「オレは権力は嫌いです。嘘も嫌いです。だから、イシがそうなら原点に戻るべきです」「あんたたち論理的すぎない。人間そんなもんじゃないわよ」「この八百屋はナモ(長本兄弟商会代表)たちが始めたんで、あんたたち後からきた人たちでしょ」「イシの名を語ってJACを乗っとろうとしているんじゃないの」……
今まで主体的にイシ活動を担うことのなかった人達の発言があいつぎました。11月の全体会議で今後の方向の採決を行うことになりました。
深夜店に戻ったぼくは、憤りと諦めの気持ちで叫びだしそうでした。
椅子を持ちだしてじゃが芋の芽をかいたり、枯れたネギの葉先を切ったり、玉ねぎの皮をむいたりしました。
時は既に1時を回っていました。玉ねぎの皮を1枚また1枚とむいていると、泡立った気持ちが山奥の湖のほとりに立っているような静けさにつつまれるのです。
シャッターを閉めて家に帰る道々、「ああ、八百屋でよかったなあ」と思ったものでした。
11月の採決会議に向けて、イシ継続グループが営業の終わった『ジャックと豆の木』などに集まって協議を繰り返しました。
その頃JACでは、スタッフ合議制を廃止し、復帰した前JAC代表の荒田君が全てを決める体制に変更していきました。JACの加工品部として大きく売り上げを伸ばし、合議制、センター構想を推進してきた小野田君・針生さんをはじめ5名がJACを退職し、この集まりに合流しはじめました。
11月の採決会議には4つの案が出されていました。

1) 小野田君たちの加工品を主にした新センター案。
2) イシを交流の場に案。
3) イシの活動停止、執行部総辞職、イシ再建委員会設置案。
4) イシ解散、現場に戻ろう案。

4)のイシ解散案は吉川君からの提案でした。1)~3)の案を巡って、イシ継続グループの話し合いが行われました。
イシ継続グループといっても、各々「有機農業」「流通販売」「ネットワーク」の3つの要素に対する力点が異なり、これまでのイシ活動の中で張り合ったり、反目し合ったりの経緯のあるグループ同士でした。更に、妥協する位ならグループ単独で「自走する」ことを選択する人たちでもありました。
「なんとプライドの高い、わがままな、めんどうくさい奴等なんだろう」と何度も思ったものでした。まるで15年前の文言を思い出させるやりとりでした。
「連帯を求めて孤立を恐れず、力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして挫けることを拒否する」
そしてイシ継続グループは、11月の採決会議に向けて一つの結論を出したのでした。

『あひるの家の冒険物語』 第8話  暗転 第一幕 ―長くて暑い夏がはじまった―

その電話が鳴ったのは1983年8月13日朝4時頃です。
その日は東京・埼玉・大阪・京都の八百屋たちとお客さんが、北軽井沢の農家に集まってサマーキャンプを催す日でした。
「関たちの車が東名高速で事故をおこして、病院にかつぎこまれた」の一報でした。
サマーキャンプはそのまま実施してもらうことにして、JACの吉川君、森崎君と長野県駒ケ根総合病院に向ったのです。帰省ラッシュを避けるため、山道や一般道を走りつづけていきました。途中で病院に連絡を入れると、「死亡者1名、重傷者6名、軽傷者1名で、運転者の居眠りが原因。氏名の詳細はわからない」ということでした。
飯を食べに入った食堂のテレビでは、トップニュースとしてグシャグシャになって横転しているワゴン車の映像とともに報じられ、「お盆のこの時期、みなさんも運転にはくれぐれもお気を付けください」と注意喚起を促していました。
亡くなったのは関君の八百屋『たんぽぽ』のスタッフ「坊さん」でした。穏やかで懐っこくてまめに働く青年は、スタッフからも子供たちからも「坊さん、坊さん」と親しまれていました。
昼過ぎに到着し、病室に向いました。下半身打撲の関君はベッドを背に半身を起していました。
「眠っていたらすごい衝撃を受け、気がついたら道路に投げ出されていた…。後から車が突っこんでこないよう“来るな~!”“助けてくれ~!”と手を振って叫んだり、血だらけで転がっている子供や大人のところにいって“ガンバレ!もうすぐ助けがくるゾ”と声をかけたり…。まるで地獄だった…。」
息をのみこんだ関君は、「坊さんが…坊さんが…死んじゃったよ」と、巨体をふるわせ泣きじゃくるばかりでした。
由美子さん(関君の妻)のところにいくと、「狩野さん、来てくれたんだ…」と呟いた後は、目を閉じて涙を流しつづけていました。顔を近づけると汗と血の臭いと、顔や腕にはかわいた血がこびりついていました。
事故にあったのは全員八百屋『たんぽぽ』のスタッフで、4人の子供たちも含まれていました。

宝塚線甲東園駅前の八百屋『たんぽぽ』に着いたのは、8時を少し回った頃です。スタッフの玲子ちゃん、大阪能勢の3人の百姓、やさか味噌の小村さんとJAC関西センターのさだめちゃん、深沢君が待っていました。
事故の様子と各人の容体を伝えると、玲子ちゃんが、「みんなを見送ったのは10時位だったのよね。坊さんは引き売りから帰って来て“明日から休みなので、トマト残ってるから売ってきます”と駅前に出かけ、戻って来てすぐ出発したから…。疲れきってたのよ…」と泣きだし、能勢の原田君が背中を撫でながら声をかけていました。
『たんぽぽ』の店販売は玲子ちゃんと能勢の原田君と山田君が交代で入り、センター業務は2人のスタッフとJACからの応援メンバーで、集荷に行っていた所には配送してくれるようお願いして、保険会社との連絡はやさかの小村さんが、そして病院・JACとの連絡など全般はぼくが担うことでともかく乗り切っていこうということになりました。
発足2ヶ月足らずのJAC関西センターは、全てを担っていた関君と、数少ない販売グループの柱だった八百屋『たんぽぽ』の機能停止状態は、存続・継続が見通せない状態に陥ったのです。

その夜、閉まりかけの風呂屋にかけこみ汗を流し、店舗兼住宅の2Fにあがりました。6畳4畳半の部屋は、窓を開け放しても扇風機を最強にしても吹き出る汗と湿気を振りはらうことはできません。「酒を飲めない」体質を恨みつつ、水を飲みつづけていました。部屋の狭さには不似合いなウッドベースがド~ンとおいてあり、写真立てにはヒロくんとユカちゃんの2人の子供の写真が飾ってありました。
主のいない家に入りこんだ居候人みたいで、居場所がみつからないのです。畳の上でゴロゴロ寝転んでいると夜が明けてきたのです。アパートの裏の共同洗濯場に行き、パンツ1枚になってホースで頭から水を浴びました。まだ5時だというのに、道路からは澱んだ灼熱の空気がたちのぼっていました。
翌日から、大阪豊中のJAC関西センターに行ったり、やさかの小村さんと保険会社に行ったり、『たんぽぽ』の店番をやったり、JACと連絡をとりあったりしました。移動は全て電車か徒歩なので(酒が飲めないだけでなく、車の運転もできない!)、乗り換えも少しスムーズに行くようになってきました。
あひるの家に電話をすると久美さんがでて、「みんな元気にやってるよ。八百屋のみんなも手伝いにきてくれているし、子供たちもプールに行ったり夏休みしてるよ。そっちはどう?」ときき、ほっとしたのです。
寝不足(枕がかわると眠れない!)と暑さと関西弁に疲れ切っていたぼくは、環状線に乗ってひたすら眠りつづけたり、内緒で1日だけビジネスホテルに避難したりしました。
実は、やることがあるようで何もすることがないのだけど、関君が戻ってくるまで居ようと思っていたのです。
8月も終わろうとする頃、まだ足をひきづりながら関君が退院してきたのです。
関君と「坊さん」のご実家に伺い、線香をあげさせていただきました。関君は巨体を折り曲げ、ひたすら「申し訳ありません、申し訳ありません」と涙を流しながら謝りつづけ、坊さんのお母さんも「お子さんたちにもケガをさせて申し訳ありません」と頭を下げつづけていました。
帰りの電車で、「入院してる時、由美子さんと“坊さんも死んじゃったし、もう八百屋はやめよう”と話していたんですわ。でも退院してきて、みんながこんなにも応援してくれてるのを見て、由美子さんとも話して、もう一度頑張ってみようかと思ったんだよね」と関君が話してくれ、ほっとしたのです。

その年の4月、あひるの家は新しいスタッフではじまりました。2月にクリクリ坊主の高校生がやってきて、「卒業したら八百屋をやりたい」と言ってきたのです。
「どうして八百屋なの?景気良さそうだから、就職先いっぱいあるんじゃない?」
「友達みんなそうなんだけど、サラリーマンにはなりたくなかったんですよね。店の前を何回か通って買い物もしてみたんだけど、楽しそうで格好良かったんですよね」
ということで、相川君はリヤカーを改装して八百屋をはじめたのです。
初日、「いってきま~す」とニコニコしながら出発し、3時過ぎに帰ってきました。店を出て、大学通りを渡って、スーパー紀ノ國屋の横を通って、富士見通りのちょっと先までだったそうです。「明日はその200m先からはじめます」と、ニコニコしながら報告してくれました、
久美さん(妻)も、11年勤めた保母の仕事を辞めて、4月に加わりました。プロジェクト・イシ全国大会にスタッフとして関わったのがはじめてで、国立商工会館での分科会は主メンバーとして担っていました。
「八百屋はじめた頃から、いろんな人が家にご飯を食べにきたよね。仁君や荒田君やキンタさんや…、個性的で魅力的で、自分の道は自分でつくるみたいな姿を見て、今まで私が出会ったことのないタイプの人だったなあ」
「いつか、この人たちと一緒に働けたら、いろいろ影響受けて自分も変われるんじゃないかと思っていた訳。そう、ず~っと変わりたかったんだと思う」
そう、八百屋に加わった動機を語りました。
久美さんが先ずやった仕事は、3年前に発行した「あひるの家債券」購入者への返済です。
引っ越した人、連絡のとれない人もいて、探偵のように少ない情報をつなぎ合わせてつきとめるのです。今なおだどりつけなかった人は2名です(お心当たりの方はお申し出ください。有効期限はありません)。それと、車の免許をとるために教習所に通いはじめました。
もう一人、店に買い物にきて、よく“まかない飯”を作ってくれていたジャズピアニストの大森君が加わりました。
車・リヤカー2台・出店販売をやめて、相川君の週3回リヤカー販売以外は、店販売と配達に切り換えました。外売りがなくなったことで店内の雰囲気はゆったり朗らかで明るくなったのです。
ただ、400万円/月の売り上げだと、20~30万円/月の赤字が続くのです。家賃は払っているけど活用できていない2Fをどうしようかと4人で話し合いました。
「大森さんのまかない飯うまいんですよね。オレ毎日でも食べたいんですよ」と相川君が言い、久美さんもぼくも「そうだ、そうだ、そうしよう」と言うと、大森君は照れくさそうに「そうかなあ、できるかなあ」ということで“めし屋”をやることになったのです。
あひるの家の食材だけで作る食堂の屋号は『ジャックと豆の木』に決まりました。改装工事はプロジェクト・イシ小川バンドにお願いし、大森君は食品衛生士の資格をとったり、かっぱ橋に買い出しにいったりしました。
開店資金は銀行からと、再び「ジャックと豆の木・豆券」という債券を発行し、100万円近い債券を購入していただいたのです。
急な階段を登って重々しい扉を開けると、梁がむきだしの吹き抜け天井が狭い空間を広くみせ、2つの出窓にはデンデン虫の灯りがともり、センターテーブルと3つの小さなテーブル、15席という小ささなのですが、とってもあったかい感じの“めし屋”ができあがったのです。
10月3日『ジャックと豆の木』はオープンしたのです。
スタッフは大森君と、マクロビオティック料理を得意とする洋子さんの2人。初日のメニューは豆カレーと豆腐ハンバーグとさんま焼定食、飲み物は三年番茶とジンジャーティーとコーヒー、ご飯は玄米でした。
開店初日、お客さんは3組5人でした。大森君が1Fの八百屋におりてきて、「お客さんがこないなあ」とうつろに佇んでいる姿が思い出されます。

暑い夏が終ろうとしていました。
ところが、9月3日プロジェクト・イシのテーブルに「プロジェクト・イシ会員の皆様へ」という15ページにわたる文章が提出されてのです。
残暑どころか、かつてない酷暑の日々がはじまったのでした。

注:写真は現在のあひるの家の2階(事務所兼倉庫兼休憩所)です。

『あひるの家の冒険物語』 第7話  祝祭

プロジェクト・イシ発足から2年(1980年初夏)、一つの提案がテーブルに出されたのです。「現場へ戻ろう!」というものでした。
「限定された条件の枠を超えて目標を掲げることを冒険と呼ぶなら、この八百屋の発足自体がその危険の中に身を投じていたことになる。有機無農薬農産物の流通販売そのものが冒険であったのだ」
「更に、プロジェクト・イシ(より人間的な)という未だ誰もが仕事のテーマとして取り組むことのなかったことにチャレンジしようとしてきた」
「しかし、プロジェクト・イシの発足は早すぎたのかもしれない。野菜の流通販売のノウハウを確立してからだったのかもしれない……。プロジェクト・イシを交流の場としつつ、来るべき時を待とう」
と語る、プロジェクト・イシの発案者で代表でJACの代表でもある荒田君の表情は、苦渋に満ちたものだった。
参加グループの採決の結果は提案否決が多数を占め、荒田君はイシからもJACからも退き、旅に出たのでした。

プロジェクト・イシの関西担当だったぼくは、近鉄奈良線学園前駅の近くにオープンした八百屋『ろ』の応援に、関君と駆けつけていた。『ろ』の高橋ファミリーはあひるの家のお客さんでもあって、奈良に帰る前1週間程、あひるの家で研修していった。
「『ろ』の開店のニュースを新聞で見たので、是非話しがききたい」と電話があり、翌日関君と吉野杉の林立する山道を行くのですが、人家らしきものはなく、公衆電話なんて見つかりもしません。
「いたずらかよ。帰ろうか、腹へったな」と戻ろうとした時、小高い丘の頂に屋敷があったのです。
門には『王隠堂』と表札がかけられ、飛び石伝いの向こうには玄関があり、声をかけたのですが人の気配が感じられません。重々しい扉を開けると籠が置かれ、開けはなたれた襖には毛筆でなにやら書いてありました。
もう一度声をかけると、家の奥からトントントンと軽快な足音がし、もんぺ姿の女性が渡り廊下を渡ってくるところでした。
「政見は柿畑にいますから」と案内された畑では、柿の木の根元に骨粉をしきつめる作業中でした。
家に戻り部屋に招かれ、「おなかすいたでしょう。召しあがっていってくださいな」と運ばれてきたお盆には、半割りにした青竹に素麺が盛られ、汁椀も青竹でした。食べた後、空腹感が更にましたようでした。
王隠堂政見さんは400年以上続く王隠堂家の当主で、ぼくより3~4才年下のようでした。
「王隠堂って何かスゴイ名前だよね?」
「南北朝時代に後醍醐天皇を匿ったことからの由来でんねん」
山々を見ながら、「王隠堂さんの所有地ってどの位あるんだい?」
腕をぐるりと回して、「見えるところ全てです」
「ところで、何で電話してきたの?」
「西吉野村は昔林業で栄えていたのだけど、今は梅と柿くらいしかないんですわ。傾斜地ばかりで栽培も難しいし、収穫も上がりしまへん。平地に負けない何かを探していたんですわ」
梅・柿の取り扱いは勿論のこと、梅・柿を使った商品は何かないか、話しが盛りあがっていきました。同世代で新しいことを始めるんだというワクワク感もあり、「王隠堂」「狩野さん」「関さん」と呼び合うようになっていました。
かつての大地主王隠堂にとって、西吉野村の再興を「有機」に賭けようとと思ったのだと思います。
麓に下りて大盛りラーメンと餃子を食べて、満腹満足の一日でした。

大阪の能勢の若手百姓たち(20才代半ば)を関君と訪ねていった時は、朝までガチンコライブの激しいやりとりがありました。
原田君、永田君、尾崎君、山田君は流通を否定し、消費者との直接やりとりを勧めている日本有機農業研究会のメンバーでした。
4人が手ぐすねひいて待っていたのがよく伝わってくる雰囲気でした。開口一番「東京モンが何しにきたんだよ!」「おまえら、有機農業を食いもんにしようってわけかよ!」と先制パンチを放ってきたのです。
“しょうがねえなあ、今日の話しはなしにして、やるしかねえか”と腹をくくったのです。
「おれは北海道育ちで、関はコテコテの関西人だよ。出目を言って何かあんのかよ」
「おまえら消費者にどうやって届けてんだよ。1パック2000円?!それってちゃんと計算してんだろ。大根150円位、キャベツ130円って、それって商売してるってことだろ」
「カネじゃなくて意味を、商品じゃなくて命の糧をって、キレイ事言ってんじゃねえよ」
「消費者だって先生やったり銀行員やったり稼いだ金で買ってんだよ。稼ぐため仕事してんだよ。農業は仕事じゃねえのかよ」
「ようするに、おまえら百姓の気持ちをわかって畑とつき合ってほしいってことだろ。おれたちはそういう流通と販売をやりたいんだよ。それにはどういうルールでやったらいいか話しにきてんだよ」
完全にヒートアップしてしまったぼくに、関君は「そら言いすぎですワ」「まあまあ、お互いそんなにツッパらんと」「どないしましょってところにいきましょうや」とコントロールしてくれました。
夜も更け、酒も出てクールダウンしはじめ、各々家族のこと、学生時代のこと、百姓のこと、八百屋のことなどを話していると、外は明るんでいたのです。
原田君が「オレ、こいつらとやってみるワ」と言い、椎茸栽培をやっている山田君は「オレも八百屋やってみようかな。椎茸も直売できるし」と言いだしたのです。
関西で1軒、また1軒と八百屋や百姓が拡がっていったのです。

それ故、

荒田君の「現場に戻ろう!イシを交流の場に!」という提案を受け入れることはできなかったのです。
自主性、任意性だけの運営は破綻しており、自主農場への返済を含む費用は70万/月と想定の2倍で、早急の対応が求められていました。
マッタナシの改変が求められていました。

あひるの家新店舗の改装を、プロジェクト・イシ・ファクトリー部門鈴木組がすすめていました。
2Fはフリースクール「あひるの学校」として利用するつもりでした。
8月新店舗オープンを前に、6人のうち4人が次のステップに旅立っていきました。ぼくと武重君だけが残ることになったのです。
“八百屋募集”を貼り出すと、何人もの応募がありました。0才と2才の子持ちの淳ちゃんと、4才の子持ちのマリさんをまっさきに採用しました。国立で暮らし子育てをしている人たちと、もっとスローな八百屋をやりたいと思っていました。
他に、長野ふじみ野で『てんとう虫農園』をやっている大西君は出稼ぎ&勉強ということで加わり、空手家でもあったので手首足首に鉄アレイをはめリヤカー八百屋をやり、夜はJACの集荷配送業務をやって2Fスペースで寝るという、超人的な体力の持ち主でした。
百姓志願の大坂君と単身者のトシちゃんも加わりました。スローな八百屋のイメージとは異なり、ぼくの子供たち(2才・小1・小2)も含め、誰かの子供の具合が悪い日が多く、「今日は誰が店出られる」状態でした。
2Fの「あひるの学校」は、ラマーズ法の草分け三森さんの「産婆の学校」以外何も企画できず、レンタルスペースになってしまいました。
そんな時、「自然食レストランをやりたい」と、若い女性が訪ねてきました。「いろいろ探したんだけどなかなかないし、お金も高くて」と困り気味。
「じゃあ、西のあひるの家の店でやる?あひるがレストランやると言えば敷金なんかいらないし」ということで、あひるの撤収後『ライスランド』という自然食レストランを始めたのは、川瀬佳恵さん(22才・現SAP)でした。
大変な期待(債券の購入)と借金を負った訳だから、本来腰を据えて商売に集中すべきなのに、日々をうっちゃることで精一杯の日々が繰り返されるのでした。

プロジェクト・イシとJACの代表になったのは吉川君です。
荒田君が立案タイプで、吉川君はそれを現実にしていく関係でした。誰の話しにも耳を傾け、身を粉にして働く姿は、ぼくをはじめ皆の絶大な信頼をかちえていました。
プロジェクト・イシは“有機流通センター構想”を打ち出したのです。

各地域に有機流通センターを設立し、地域における有機生産物の生産-流通販売-消費の環を作り出し、地域間のネットワークを結ぶことで、地域における需要と供給のアンバランスを是正し、全国的な有機農業の発展をサポートしていこう。

というものです。
既に関西でも埼玉でも北海道でも胎動しはじめていました。
イシの運営は参加・賛同・非加入を各グループに選んでもらって、それに応じて会費や関わり方を決定しました。全グループは50グループで、参加グループは約半数で、会費は150%UPの165万円になったのです。
当面の危機は脱したのです。
関西をはじめ有機流通センターの設立が緊急の課題となっていました。

1983年
4月1日 有機流通センターJAC埼玉設立
4月1日 有機農産物生産流通センターJAC茨城設立
6月1日 有機流通センターJAC関西設立
9月1日 有機流通センターJAC北海道設立

各地域では設立に向け準備が進められていきました。ぼくは「当分の間イシとの調整役が必要」ということで、JAC関西センターの代表の役を担うことになった。
そして、これからの拡がりを生産者・製造者・八百屋・消費者と共有していくために、プロジェクト・イシ5周年を記念して全国大会を催そうということが全体会で決定されるのでした。
2日間に亘る催しには、のべ1200人が参加しました。
生産者や製造者、東京以外の八百屋たちにとって、「こんなたくさんの仲間や応援してくれる人がいるんだということが感じられ、これからの仕事の活力になった」との声が届けられました。

道につづく道ができたとはとても思えず、前に道はあるように思えるけど後ろの道は定かではない、という歳月だったように思えます。
「おれたち、つま先だってる感じだけど、つま先だけど地についてるんだよね」という、仲間が呟いた言葉が印象深かったのです。

『あひるの家の冒険物語』 第6話  時は巡る

岸君が亡くなった。

茨城玉造町の自営農場の開設が迫っていました。
あひるの家からは仁君とむっちゃんのカップルが移住することになり、トラック販売の担い手を探していました。農場で養鶏を担当する2人にとっても、ヒヨコの入舎が迫っていました。
仁君が農場開設準備を手伝ってくれていた若者を連れてきたのです。大学を休学中だという岸君は、さっそく仁君のトラックに同乗し、引き継ぎをはじめたのです。
その頃、世田谷で『もんぺの八百屋』をやっていたぷかさん(タバコをプカプカくゆらしているから)と、織物をやっていたウリちゃんが加わってきました。リヤカー八百屋で腰をいためたぷかさんは出店と店を、小柄で華奢なのに芯が強くて甘え上手なウリちゃんはリヤカー八百屋をはじめました。
国立市西区にあるオンボロアパート大原荘(玄関トイレ共有・風呂ナシ・6部屋)は、あひるスタッフの住処になっていました。6部屋の内4部屋はあひるスタッフで、あと2部屋は、よく訪れた旅人たちの無断宿泊所になっていたようです。
引き継いでから1ヶ月、元々口数の少なかった岸君は、ますます口数が少なくなり、疲れがたまってきているようでした。
ウリちゃんからチョッカイを出されニヤッと笑う時もあるのですが、大原荘では皆の輪に加わることも少なく、「疲れたから寝る」という日も多かったようです。
その前の日、ミーティングをしている時だるそうにしていたので、「熱ありそうだから早く帰った方がいいよ」と言われ、早目に引きあげていきました。
翌朝、10時になっても出てこないので、「オレちょっと見てくるワ。熱出てるかもしれないし」と大原荘に向いました。
「岸!どうした?具合悪いか?」と部屋のドアを開けると、布団の中で仰向けに寝ていました。枕元には今日のコースの地図とつり銭箱と、脱ぎ捨てたジーンズやシャツがありました。
声をかけても目を覚まさないので、「おい!岸」と肩口をゆさぶりました。グラグラと揺れるのです。その感触と、部屋に入った時に目に入った「アレッ!」と思った光景が浮かんだのです。
見ると炬燵のコードが布団の中に引き込まれていました。布団をはぐと、コードはパジャマの中まで続き、左胸にガムテープで固定されていました。
救急車を呼び、山梨甲府の実家に連絡しました。
警察の検証がはじまり、お母さん、お姉さんが駆けつけてきました。刑事とお姉さんに様子をきかれたりしましたが、「お店で待機していてください」と言われ、戻っていました。当然、お母さんやお姉さんから詰問され、刑事からは事情聴取があるものと思っていたのです。
夕方、「遺留物預り証」を持って刑事が来た時に、お母さんもお姉さんも岸君の遺体も、既に甲府に帰っていったことを知るのです。
後日、武重君とお墓参りに行ってきました。甲府駅前にある大きな肥料問屋が岸君の実家です。
線香をあげさせていただき、バスに乗って山間にあるお墓に花を手向けました。この時も、親御さんから「うちの息子、八百屋の時はどうでした?」などという話しもでませんでした。
帰りの電車でぼくは、哀しくて悔しくて仕方ありませんでした。「疎まれている」気がしてならなかったのです。八百屋もそうですが、岸君が生きてきたことが疎まれているように思えてならなかったのです。

梅雨の続く夕方、カウボーイハットにベストのウエスタンスタイルの青年が訪ねてきました。
今村昌平監督の横浜映画学校の入学申し込みの帰りに寄ったということで、八百屋が紹介された雑誌を持っていました。
栃木の真岡市からやって来た光内君のおじいちゃんは民間農学者で、有機農業に精通し、自分も関心があったとのことです。
「映画やめて八百屋やらない?」
「いいですねえ」
「住むとこあんだけど、前のスタッフが自殺しちゃって。そこなんだけど」
「ぼく、その人知らないから気にならないですけど」
「給料7万円位なんだけどいいかな?」
「いいですよ。足りなかったら親に送ってもらうから」
そのあっけらかんとした明るさとこだわりのなさが、鬱屈していた空気を取り払ってくれるようでした。
10日間休止していたトラック八百屋が再開されたのです。
11月、大学通り緑地帯で野菜を並べ売っていると、歩道を軽快なフットワークで走ってくる若者がいました。
黒のニットの帽子をとって、「北海道富良野の阪井です。八百屋やらしてください」と自己紹介した阪井君は、そのまま大原荘に住みはじめ、「織物づくりに専念したい」というウリちゃんに替わってリヤカー八百屋をはじめたのです。
富良野麓郷の農家の息子阪井君は、百姓が嫌で東京に出てラーメン屋で働きながら、プロボクサーのトレーニングを積んできたそうです。4回戦ボーイまでいったけど、顎が弱くてボクサーを断念してオヤジの仕事を手伝っている時、この八百屋のことをテレビで観て書きとめておいて、収穫が終ったので出てきたということです。
「有機農業のことを勉強したい。ただし、雪が解ける3月一杯まで」という条件でした。
百姓をやっていただけあって野菜への情熱と知識は豊富で説得力もあり、更にスリムで軽快で恰好いい訳ですから、お客さんの人気も売り上げも上がる一方でした。
12月頃から、夕方になると店の前に焼き芋屋のリヤカーが止まっていることが多くなったのです。新潟の小千谷から出稼ぎに来ている五十嵐青年が焼き芋をプレゼントしてくれ、お茶を飲んでお喋りをしていたのです。
お目当ては藤井さんでした。「嫁にこないか」ということのようです。
フェミニズムの活動をやっていたシティーガールの藤井さんにとって、米と西瓜の産地で、ガチガチの農村で暮らすという選択は、五十嵐君への想いを含んでも決断するのは大変悩ましいものがあったと思います。
そこで、藤井さんは3つの提案を出したのです。
「家族経営をやめる。法人化して、労働時間や給与など働き方を明確にする」
「両親とは別に住居を構える」
「米・西瓜の栽培に加え、新たに花などの栽培をはじめる」
この提案の全てを五十嵐君は受け入れ、両親を説得し、出稼ぎが終った春3月、藤井さんは五十嵐君とともに新潟に向いました。

プロジェクト・イシの活動も拡がりを見せ、拡がった分矛盾も拡大していきました。
ぼくはプロジェクト・イシの関西担当になって、大阪に出向いて、関君と八百屋志願者や百姓と会ったりしました。
あひるの家の経営的・人的安定が必要条件になっていました。経営的には、売上げの7割がトラック・リヤカー2台・出店販売が占め、人のやりくりに苦渋していました。店の販売力向上がどうしても欠かせないものでした。
そんな時、国立東1丁目の角地に一戸建ての賃貸物件がありました。ぼくは、「コレダ!ここならやれる!」と、そう思い込んでしまったのです。
スタッフ5人に相談してみると、全員が保留或いは反対でした。怖気づいたぼくは、まもなく富良野に帰る阪井君に相談したのです。
「失敗したらどうしようかね。やったはいいけど、オレ一人ってこともあるし」
「八百屋のことはわかんないけど、百姓って失敗って思わないんだよね。また春が来ると種を播くんだよ」
借りようとしていた店舗物件は一階二階合わせて家賃25万円/月、保証金550万円という、考え及ばない金額でした。7万円/月の家賃でやっとやっている現状から見て、「借り入れは?」「採算は?」など試算するのも無駄な、無謀な事だったのだと思います。
「あひるの家の債券」というペーパーを発行したのです。「一口一万円・一年据置・二年返済・無利息」というものです。
お客さんや八百屋仲間、友人知人にお願いしたところ、債券の購入額は500万円近くにのぼりました。
「お客さんの阿部さんが債券代として10万円置いていったよ」ときき、阿部さんのお宅にお伺いすると、「ウン、ウン、あとでお店に行くから」とあわてた様子。「おとうちゃんが家にいたから、きっとヘソクリなんだろうな」というお客さんや、「今のところ使う予定ないから」と銀行窓口から50万円を下ろし、「いつでもいいから」と手渡してくれた元職場の同僚の村田君や……、50名近いお客さんが債券を購入してくれました。
それと東京都の融資350万円を合せて、賃貸契約と改装費の目途ができたのです。

新店舗移転は、「見るまえに跳べ」そのものだったと思います。こちら岸に戻る小舟は用意されていませんでした。
さてさて、どうなることやら……。

『あひるの家の冒険物語』 第5話  夢を馳せる

1978年12月、プロジェクト・イシが発足しました。
八百屋の次に向けて考え、行動するプロジェクトをすすめていくテーブルのはじまりです。
国立の西にあひるの家の店舗を開いてから3ヶ月たらずの頃でした。その年の初夏、八百屋の集まりで流通センターJAC代表の荒田君から出された1枚のペーパーがきっかけでした。
「俺達1人1人の八百屋への関わりは多様だ。俺達は決して売ったり運んだりすることで充たされていない。俺達のもつ多様な目的や価値観を、可能性として結んでいけるテーブルが必要なのではないか?そんなテーブルを設けることで、個人の限界を突き破る新しい生き方をつくりあげることができるのではないか?」
「そんな自主運営、自営自立のテーブルをプロジェクト・イシ(ヤヒ語で“もっとも人間的な”という意味)と名付けたい」
集まりの最中に出た、農家が山林を売ってもいいと言っているという話しも含めてあひるスタッフ4人に報告すると、仁君とむっちゃんは「自分たちの農場を持つんだ!いいなぁ、やりたいねぇ」と目を輝かせ、藤井さんは「ステキ!ステキ!」とはしゃぎ、武重君は「写真とってこよう」と大喜び。
「エーッ、みんないなくなっちゃうじゃねえかよ。誰があひるやるんだよ」と、暗澹たる気持ちになってしまいました。

初めての年末商戦は、注文表をつくったり集計したり、店頭に「大売り出し」の旗をたてたり、初めてづくしのことばかりで活気にあふれていました。
「会社のお客さんにお歳暮として届けたい」とみかんを20ケース注文してくれた人や、「調味料をセットにして送りたいんだけど」と言われ、各々の家にあった空箱や包装紙を持ってきて、「高島屋の包装紙だけどいいですか。あひるマークのスタンプおしておきますけど」と対応してみたり、「商売してるなぁ」と実感する5日間でした。
1人3万円の大入り袋を手に、31日夕刻シャッターを閉め、「また来年。よいお年を」と声を掛け合って帰っていく時、「あゝ1年が終った。本当に最後の最後までよく働いたよなぁ」としみじみ思ったものでした。

年が明け1979年、プロジェクト・イシは動きはじめたのです。
主なプロジェクトは5つありました。
① 流通企画プロジェクト(JACと販売グループで農家への作付や商品企画)
② 農事プロジェクト(自営農場の開設と運営)
③ 帰農プロジェクト(百姓志願者へのサポート)
④ 広報プロジェクト(新グループ募集・メディア対応・ビデオ映画製作)
⑤ ファクトリープロジェクト(店、車の改装、改造・お客さんの家のリフォーム)
プロジェクト・イシの運営費は10数グループからの任意の会費制で月80万円位、担い方も任意の関わり方だった。
「農事」と「広報」が活動を開始したのです。茨城県玉造町にある山林1町3反歩を購入したのです。
山林の伐採・開墾・整地、そして家屋・鶏舎の建設のため毎週末、八百屋のトラックに乗り込んで若者たちが向かいました。作業がすむと飯を作り、たき火を囲んで野宿です。
あひるの家からも仁君、むっちゃんをはじめ、店に立ち寄っていた旅人たちが茨城に向っていきました。
農場スタッフとして長本兄弟商会(西荻窪)、野勘草(国分寺)、そしてあひるの家から仁君とむっちゃんの三世帯が移住していきました。畑と養鶏と椎茸栽培で生計をたてていく計画です。
農場開設費用は1650万円(土地)+800万円(家屋建設・農業資材)かかり、10年返済で月々の返済額は30万円強というものでした。

ぼくは『ごんべえの八百屋』の小野田君、滝沢さんと広報を担当しました。
かつて映画製作にたずさわっていた小野田君は、当時広まりつつあったビデオカメラを購入し、『百姓宣言(農場開設)』『地球の羊水(伊豆大島での塩づくり)』『旬を運ぶ青春(トラック八百屋)』『ウリ物語(あひるの家のリヤカー八百屋ウリちゃん)』など10本あまりを撮り、その年の2つのビデオフェスティバルで特別な賞をもらったりもしました。
この頃からメディアの取材も多くなり、NHK『明るい農村』、朝日ジャーナル『もうひとつの若者文化』、別冊宝島『街を耕す若者たち』、an‐an、私の部屋・・・・・・
ぼくは初めてテレビスタジオにいき、『ルックルックこんにちは』というワイドショーに出たりもしました。
「有機農業」「食の安全」「若者文化」「リヤカー八百屋」「街と村を結ぶ新しい流通」と多様な切り口があったことがメディアにとって取りあげやすかったのだと思います。

メディア効果は大きく、新しい八百屋志望者や百姓たちが訪れてくることも多くなりました。
「今、新幹線の中なんですけど、八百屋やらしてください」と電話してきたトヨタの工場労働者だった(辞めてきた)山縣さんにはあわてました。
「迎えに行くから、そこから動くな。ホームで待ってて。ところでどんな格好してんの、おれはね……」。 山縣さんはそれから1週間後、リヤカー八百屋として国分寺の街にくり出していきました。
大阪からは別冊宝島を小脇に抱え、ウォークマンでジャズを聴きながら、巨人(190cm越え)関君がコテコテの関西弁で「大阪でもこないな八百屋やりたいんやけど、どないしたらいいです」とやってきたりもしました。
国産小麦・天然酵母のパン屋や味噌屋もコンニャク屋もやってきました。プロジェクト・イシの活動は、確実に拡がりとつながりをつくり出していきました。
ただ、ぼくが荒田君のイシ提案に共感したのは、「今、八百屋もJACも大変じゃない。でも、もっと先になってもうかるようになったら、共同のテーブルをつくろうなんて思わなくなるよ。貧しさは共有できても豊かさは共有できないってことだよね。だから、無理しても今つくらなきゃっておれは思うんだ」という言葉だった。

中央高速道路分倍河原高架下の流通センターJAC(ジャパン・アグリカルチャー・コミュニティー)の倉庫には、廃車になったバスがありました。座席を取り払って、台所・事務所・宿泊場所として利用していました。
JACスタッフ4人(20才代)は茨城・山梨・長野は勿論のこと、遠くは愛知まで集荷のトラックを走らせていました。1年間の走行距離は10万kmを超えていました。
月売上げが500万円強で粗利益は60万円位で、車両費などを除くとスタッフの取り分は無く、時間も金もないのでバスで寝泊まりしている現状でした。
ぼくの家に飯を食いにきてお風呂に入っていくと、湯船は泥でドロドロになっていました。屋根の下で暮らしているのが申し訳ない気がする位でした。
そんな状況の中で「もっと跳ぼう!」という提案は、「八百屋をやりたい訳ではない」「仲間がほしい訳ではない」「何をしたいのか見つからない」などと、グズグズしていたぼくの横っ面を張りとばしたのです。
プロジェクトの一端を担わせてもらって、けっして一人では得ることの出来ない経験をさせてもらいました。それは心湧きたつものでした。
着地点がどこなのかわからないのですが、浮かび上がった飛行船に乗ってもっと空高く遠くまで飛んでいければ、見える景色も変わっていくだろう、そう思ったものでした。

『あひるの家の冒険物語』第4話 突き出されたトコロテンの行く先は……

1978年春3月仁君が、その10日後に武重君が訪ねてきました。
髪を後ろで束ねて顎鬚をのばした仁君は、山梨韮崎の自給自足を営む農場からやって来ました。
武重君はこれまで定職についたことがなく、趣味の写真と不用品修理でいくばくかのお金を稼いで生活していたそうです。この日もカメラ携えてやって来ました。
国立と周辺エリアを分けて、3軒のリヤカー八百屋がはじまったのです。ぼくには「仲間がふえた!」という喜びよりも、「エーッ!どうして?」という戸惑いの方が大きかったのです。
2人はよく夜訪ねてきて、ぼくの子供たちと遊んでくれたりしながら、「里芋の傷みはどうしたらわかるんだろうか?」とか「サツマ芋がボソッと腐るんだけど」「風にあたってヨレヨレのほうれん草は、水をふった方がいいんだろうか?」「100g35円で470gあった時、どうやって計算してる?」「卵の殻、割れやすいよね」など、今日お客さんに言われたことなど話しは尽きないのです。たった半年なのに、彼等にとってぼくは八百屋の先達ということになる訳です。
そして8月、「役所辞めてきちゃった。八百屋やらして」と清々しい笑顔で、元職場の同僚だった藤井愛子さんが増田書店の前にあらわれたのです。
元職場のサークルではフェミニズムをテーマに活動し、本屋さんの前によく顔を出してくれていました。それでも、「辞めてくる。八百屋をやる」とは思いもしませんでした。
仁君のパートナーで、自給自足農場に出入りしたり八百屋を手伝ったりしていたむっちゃんから、八百屋をやりたい旨のアピールもありました。
5人で話し合いをもったのです。
「フラットのエリアを考えると、5軒のリヤカー八百屋がやっていくのは難しいよなあ」
「リヤカーの基地があるといいね。荷物のやりとりもできるし」
「八百屋だけじゃなくて、ふらっと人が立ち寄ってお茶飲んでいく場があるといいね」
「そうそう、元気のでる情報交差点みたいなスペース」
ということで、藤井さんとぼくの退職金で持てるお店を探すことになりました。「1年間やって、9月4日に八百屋をやめる」という、ぼくの秘かな決意を言い出すことができませんでした。
10月、国立西(駅から15分)の富士見通り沿いに、7坪の縦長の店をオープンさせたのです。
店の看板は、友人で画家の清重君(いもむしころう)が、「1週間分の食材提供」とひきかえに描いてくれました。濃いグリーンの下地に、大根と人参を掲げたあひるがユーモラスに描かれています。
●スタッフ:5人 30才1人 20才半ば3人 20才1人
●八百屋暦:1年1ヶ月1人 7ヶ月2人 0ヶ月2人
●販売形態:店舗(無休) 軽トラック リヤカー2台
●運営:合議制
●給与:一人一律7万円
店がオープンしてからもしばらくはリヤカー八百屋をつづけていたのですが、リヤカーで買っていたお客さんで店まで買いに来られた方は1割もいませんでした。
思うのです。
「ほとんどのお客さんは“有機無農薬の食品”が欲しかったという訳ではないんだ。じゃあ、あの熱い共感、共有のようなものは何だったんだろう?」
以降、「リヤカー八百屋のような店になりたい」というのがテーマとなります。
そんな目算外れも、立地もあったり不慣れもあり、店はあんまりというか相当売れませんでした。来客数3人という日もありました。
「待っていてもしょうがない」ということで、交替しながらリヤカーに野菜を積んで、旭通りバス停前の駐車場、大学通り緑地帯、増田書店前、富士見台第一団地などで宣伝をかねて販売したりもしました。
朝リヤカーで出発する時より、帰って来た時の荷が多いという武重君は、壊れた自転車や弦の切れたギターや、使わなくなった冷蔵庫をお客さんにもらってきたり、拾ってきて修理しクリーニングして一緒に売ったりもしていました。
店にはお客さんはあんまり来なかったけど、店内の1畳の畳スペースは“旅人たちや国立・国分寺の知り合いたちのたまり場”にもなっていたので、にぎやかな笑い声であふれていました。
空気が澱みはじめていました。
むっちゃんや藤井さんは勿論のこと、仁君や武重君そしてなによりぼく自身が、“澱み”をコントロールする気構えがありませんでした。
「店を持ちたかった」訳でも、「仲間がほしかった」訳でもなく、更に「八百屋をやりたい」訳でもないぼくには、踏みこんで向かい合ってゆく情念のようなものがなかったのだと思います。
音がすれど姿のみえない昼の花火のように、音がする度に顔をあげて、少しワクワクしながらながめるのだけど、何も見えないというもどかしさが続いた1年でした。

―訂正―

始めるにあたって「時系列と名称が苦手」とお知らせしましたが、さっそく間違えました。
リヤカー八百屋のスタートを1978年と記しましたが、1977年9月5日の誤りでした。古いメモが見つかったり、学生の頃から指折り数えてみて判明しました。
ずーっとそう思っていたので、『あひるの家の冒険物語』を書き始めた最大の収穫を得たような気がします。
あと、人名がよくでてきますが、今もあの頃も本名を知らなかった人がたくさんいたことを思い出します。通称名で記していきます。

『あひるの家の冒険物語』 第3話  全ての道はリヤカーに通じる

ポスティングした3000枚のチラシに30件余りの問い合わせがありました。
中区1・2丁目を月・木、東区1・2丁目を火・金、東区3・4丁目と府中北山町を水・土と、3コースに分けてみました。
朝、子供たちを保育園に送っていって、洗濯物を干したりしていると、9時半位に野菜が届けられます。
野菜の多くは茨城県玉造町や北浦町の数軒の農家がメインで、ほうれん草や小松菜は新聞紙でくるんで稲わらで結んでありました。
お米は30kg袋、味噌は5kg袋、卵は10kg箱で、加工品は1.8ℓ瓶の醤油・酢・ソースで、あとベニバナ油・天塩・お茶でした。
前日の野菜の手入れをしながら積み込みの開始です。気分を奮いたたせるため、大音量でレコードをかけます。
井上陽水の『氷の世界』、吉田拓郎の『落陽』、岡林信康の『わたしたちの望むもの』、ホルストの『惑星』、ベートーベンの『英雄』などをよくかけていましたが、バッハとモーツァルトはダメでした。
積み終わるとコーヒーをいれ、庭先に干してある赤・黄・緑・オレンジ・白などのタオルから「今日はアカだ!」とか言って頭にかぶります。
10時半、出発です。家の路地を出ると走りはじめるのです。一軒寄ってまた次の一軒まで走ります。その間「ヤオヤ~、ムノーヤクノヤオヤ~!」と声を張りあげつづけるのです。
ぼくが走った理由は、霜田君のように「体を鍛える。街にくり出すパフォーマンス」ではなく、知り合いと目を合わせたくなかったのと、「息せききってお客さんのところに駆けこんで、その勢いで売る」しかなかったからです。
それでも「本当に無農薬なの?」「まっすぐなキュウリはないの?」「このトマト真っ赤じゃない。熟れすぎてんじゃない?」「どうしてこんなことしてんの?」「エライわねえ」などの問いにこたえられず、「この大根辛い?」ときかれ、辛いと買ってくれるのかと思って「ウン、辛いよ」と言ったら「辛けりゃいらない」と言われたり、「目方?メカタはタカメよね」と去っていくのを「なるほどなあ、いいこと言うなあ」と感心したり、勢いではどうにもならないことばかりでした。
そんな中、雨の中向うからやってきた上品な御夫婦が「あなた何やってんの?」と声をかけてくれ、「あの角を曲がったところだから、今度寄りなさい」と言ってくれたり、マンションの管理人さんが館内放送を使って案内してくれ、エントランススペースを使わせてくれたり、老夫婦が買う物がないのにお米を30kg買ってくれたり、「寒かったろう。家に入って休んでいけよ」と言われて上がらせてもらうとお酒と刺身が食卓に並べられていたり、「あらあら、汗だらけじゃない。シャワー浴びていったら」と魅惑的なお誘いがあったり……。
それでも毎夜眠りにつく時、「明日目が覚めたら嘘だったということにならないだろうか」と思っていました。
3ヶ月が過ぎた12月の半ば、コースを回りいつものように大学通り増田書店の前で野菜を並べていました。よく元職場の同僚や後輩達が勤め帰りに顔を見せるのですが、今日は居ないようです。吹き抜ける風に道行く人たちは足早に通りすぎていきました。
Tシャツにヤッケ、長靴にジーパンのぼくは、駆け込んできた火照りがまだ残っていました。路肩に腰かけながら立ちどまる人に売りながら、本屋さんの灯りをながめていました。何人もの人が足早に店内に入り、何人もの人が襟をかきあわせながら出ていきました。
風も強くなり通りかかる人もまばらになってきたのでリヤカーに野菜を積み込んでいる時、ふっと「そうか~。おれはもうこっち側にいるんだなあ」と思ったのです。
その気付きは家に向っている間もどんどん広がり、体や心のすみずみまでしみこんでいくようでした。
カラカラとリヤカーは快いリズムを刻んでいました。

次の日からぼくはお客さんに「実は……」と言いはじめたのです。
「実は、有機農業も無農薬も添加物も、八百屋という商売も関心がないんです……。ただ、時間通りに来ることだけは約束します」
お客さんはあきれたり苦笑いを浮かべたり、それでも「あんたが持って来るトマトおいしいわよね」とか、「そうだと思った。だってキヨツケ!しないと買えない感じだったもの」とか、「この里芋、揚げるとおいしいわよね」とサポートしてくれるお客さんもいました。ぼくの出来ることは、街の時計屋さんになることと、リヤカーの走りに磨きをかけることです。
じゃが芋・玉ねぎ・人参各々5kg、大根10本で15kg、キャベツ10kg、みかん10kg、白菜・りんご・トマト・キュウリ・卵・醤油……150kg~200kgの品物を載せるのです。
5cmの段差を乗り越えるには、上り坂はどの辺りから助走をつければいいか、コーナーをスピードをおとさずに曲がるには、停まるには、そして荷物が落っこちない積み方は……。次々と課題がもちあがってきます。
「実は……」からしばらくすると、急に売れはじめたのです。ポイントに集まって来るお客さんもふえ、お客さん同士の話しも弾み、笑い声が弾けます。ぼくはそばでヘラヘラしながら量ったり売ったりしていました。
その頃から人伝にきいてきたリヤカー八百屋志願者がひとり、またひとりとやって来て、併走するという事がおこるのです。
世田谷で『ごんべえのお宿』という保育所をやっている小野田君と滝川さんが併走し、「こんなに売れるんだ」と感心し、「子供を育てることと食べること」ということで、『ごんべえの
八百屋』と『もんぺの八百屋』という屋号で2軒のリヤカー八百屋を4人ではじめたのでした。
国立でも仁君と武重君の2人がやってきて八百屋をはじめました。
農家の納屋に使わなくなってほってあったリヤカーをもらってきて、各人デコレーションすれば完成です。
横笛を吹きながら、ギターをかきならしながら、紙芝居をやりながら、飲み屋をやりながら、昼間は……。
リヤカー八百屋は始めるのあたっても始めてからも、ほとんどお金はかかりません。リヤカーはタダだし、人力ですからランニングコストもかかりません。自営業なので働き方や売り上げの制約がありません。「ガンバッテ!」などと、お客さんから評価されることもあります。
そして何より八百屋なので食べられるのです。
たった8ヶ月余りで13軒15人のリヤカー八百屋が誕生し、全員が20才代でした。

昼御飯を食べる間もなくなったぼくは、保育園のお迎え時間ギリギリにリヤカーで駆けこむのです。雨の日は全身ビショ濡れで、暑い日は真っ赤な顔で。
子供たちは友達に「おまえんちリヤカーある?乗せてあげようか」と自慢気にリヤカーに乗りこみます。友達一人一人を家まで送っていって、家に帰ってある野菜で夕食の準備です。夕食の支度をしながら、子供たちは今日保育園であったこと、ぼくは今日八百屋であったことを喋るのです。
休みの日に子供たちと歩いてみると、ぼくが一日虫のように這いずりまわっているエリアは、直線距離で5分もかからないところでした。
週末、今週分の支払いのため、1週間分の売り上げを数えるのです。缶に入ったコインを机の上にばらまいて、子供たちと1枚2枚3枚と積み上げていきます。支払い分を除いたこの山が、1週間分の稼ぎなのです。その額は、勤め人をやっていた時を上回ることも多くなったのです。
1年が1日のように過ごしてきたぼくにとって、リヤカー八百屋の日々は1日が1年のようでした。
胃薬が手放せなかったぼくはご飯を3杯も食べ、風邪をひくこともなくなりました。マイナス要素と思っていたもののひとつひとつがプラス要素に転換しつつありました。
そしてぼくは、「全ての道はリヤカーに通じる」と呟くのでした。

『あひるの家の冒険物語』 第2話 その前夜 ―PARTⅡ―

ほどなくしてぼくは役所勤めを辞めることになりました。
相談もかねてその旨久美さん(妻)に伝えると、「やってみたいんだから、やった方がいいよ。ただ、10万円家に入れてね」と言うだけで、家に持ち帰った保育園の事務仕事を続けていました。
退路は断たれたのです。
職場では上司に喜ばれ、同僚や後輩から何で?それで?と、たくさんの疑問符が投げかけられました。そのどれにも明確に答えることはできませんでした。
どうしたって、「コーヒーとタバコとコーラがあればいいや」というぼくが、「有機無農薬の八百屋を、それもリヤカーでやる」というのは、こじつけるのも無理なことでした。
八百屋をはじめるまで2ヶ月位の間があり、朝、3才と5才の子供たちを保育園に送って行って、迎えに行くまですることがありませんでした。
有機農業や安全安心の食べものに関する本を何冊か買ってはみたものの、表紙をながめているだけでした。やったのはヒゲをのばしたこと位です。
それでも、流通センターJACの吉川君や荒田君の集荷のトラックに乗って、茨城や長野の農家に連れてってもらい、話しをきいたり収穫を手伝ったりしたのですが、ただひたすら暑かったのと、おやつに出された手のひらいっぱいの白砂糖と、明け方戻った東京で食べた牛丼が旨かったことが印象に残ったことでした。

霜田君は中央線西荻窪の長本兄弟商会の店先を借りてリヤカー八百屋をやっていました。
1960年代後半~70年代前半にかけて、若者たちの先端的文化活動が2つありました。「自立と連帯」を掲げ学校や街頭をフィールドにした全共闘運動と、「Love&Peace」を掲げ離島や山村をフィールドにしたヒッピームーブメントです。
長本兄弟商会はヒッピームーブメントの人たちによってはじめられた八百屋です。
その仕入部門を担っていた3人が、「もっとたくさんの八百屋をつくらないとつぶれちゃうよ」と独立してはじめたのが流通センターJACで、ぼくが出会ったのは発足間もない頃でした。

暑い暑い夏の無為な日々は、ぼくから体力も気力も意地も見栄も奪いとりつつあり、子供たちを保育園に迎えに行く時間を心待ちにするようになりました。
霜田君は公演が忙しくなり、八百屋は休止していました。
外堀も内堀も埋められたぼくは、開き直るしかありません。
●力仕事をしたことがない。 ●安いだ高いだ金のことを言うのはカッコワルイ。 ●野菜はあんまり好きじゃない。  ●安全な食べ物に関心がない。 ●農業なんて知らないよ。 ●若いネエちゃんは好きだけど、おばちゃんはなあ…
全てはマイナス要素ばかりです。

それでもやらなくちゃいけないのですから、八百屋をはじめる理由(ワケ)を自分に言いきかせるしかないのです。
「29年間オレは、得意なこと好きなことだけをやってきて、そんな自分を変えたかったんだろ。苦手なことをやってみるというのもいいんじゃないか」
「社会が大きいこと、速いこと、システマティックに向かっていく中、その真逆のことをやるのは、もしかしたら新しい価値が見つけられるのじゃないだろうか」
「百姓が土を耕すように、街をリヤカーで地を這うことで翔べるんじゃないだろうか」
「アヒルも昔空を飛んでいたのに、人間に馴らされることで飛べなくなったという。オレたちも社会のシステムに馴らされることで翔べなくなっているんじゃないか」
「そうだ!空を飛び回る夢みて、八百屋の屋号はあひるの家としよう!」
元職場の同僚や後輩たちが、刷りあがった3000枚のチラシを手分けしてポスティングしてくれたり、野菜保管のための倉庫を作ってくれたり、半分に切った丸太に「あひるの家」と彫った看板をプレゼントしてくれました。
そして、秘かに「1978年9月5日からはじめて、翌年の9月4日にやめよう。修行のつもりで」と、固く決意したのでした。