Author Archives: kano

【梅】【らっきょう】ご予約承り中

あひるの家販売ランキングbest3にいつもランキングしているのが、王隠堂さんの【有機梅干】です。「この梅干おいしいのよね」と、まとめて買っていかれる方が何人もいます。たしかに塩もいいし、しそもいっぱい入っているけど、やっぱり梅が旨いんだと思います。
奈良・西吉野の山中、標高400mのところにある王隠堂さんの梅林の土は、ふっかふかであったかそうです。それと、王隠堂さんの家はその名の通り、南北朝時代後醍醐天皇をかくまったことで名字帯刀を許された由緒ある家系で、その頃から梅を栽培していたそうですから、もう歴史的産物ということになります。歴史と時代が合体した産物が、王隠堂さんの梅です。
子供が大好きな梅ジュース・梅シロップ漬けは、作るのカンタン、1ヶ月位から飲めるので、この夏中楽しめます。大人が大好きな梅酒も作るのカンタンというか、ただ焼酎と梅を合わせるだけみたいなもんです。3ヶ月位でおいしくいただけます。
誰もが顔をしかめながら、それでも1年中食べている梅干は、ちょっと手間がかかりますが、その分自家製梅干は旨いです。夏を越えた頃から食べ頃になります。
最近漬ける人が急増しているのがらっきょうです。甘酢漬け、塩漬けがありますが、パリパリで食べたい人は2~3日漬ければOKです。味がしみて少しやわらかいのをお好みの人は1ヶ月待ってください。むきながら味噌なんかつけて食べる生らっきょうもおすすめです。
只今漬け方レシピ配布中。「な~んだ、これならわたしにもできる」と思った人、ご注文ください。期間はわずか2週間、1kgからやってみよう。

【有機青梅(梅酒・梅シロップ用)】 1kg 1,200円 入荷期間:6/4(月)~6/16(土)

【有機青梅(梅干用)】 1kg 1,200円 入荷期間:6/18(月)~6/30(土)

【らっきょう】 1kg 680円 5kg 3,200円  茨城・小沼さん 農薬・化学肥料不使用 入荷期間:6/18(月)~3週間位

お渡し希望日の1週間前までにご注文ください。

畑だより ―暑さで野菜が前倒しで育っています―

―直送野菜―

★栃木鹿沼・鈴木章さん
ブロッコリー・カリフラワー・セロリ・ほうれん草・そら豆・いんげん・枝豆・スナップエンドウ・絹サヤエンドウ・きゅうり

★神奈川愛川・北原君
大根・ミサキキャベツ・カリフラワー・リーフレタス・葉人参・ラディッシュ・ズッキーニ・ルッコラ・スナップエンドウ

―契約野菜など―

★夏野菜は沖縄・鹿児島・長崎から届いています。
トマト・ミニトマト・きゅうり・ピーマン・ニガウリ・ズッキーニ・そら豆・パプリカ・オクラ・いんげん

★さや・豆類や葉野菜は茨城・山梨・長野から届いています。
スナップエンドウ・絹サヤエンドウ・レタス・サニーレタス・ブロッコリー・カリフラワー・ほうれん草・小松菜・白菜・キャベツ・大根

★グリーンアスパラ・ホワイトアスパラ(北海道)、ハーブ苗・野菜苗(茨城)はミニトマト・青じそ・スイートバジル・モロヘイヤ・タイムなど

―果物―

夏果物がまだなので、相当淋しいものになります。

★パイナップル(沖縄石垣島・西表島)はボゴール種・ピーチ種・ハワイ種 各々甘味・酸味・香り・色合いがちがうので楽しめます。

★バナナ(ペルー・エクアドル) 味が濃いフェアトレード商品です。

★甘夏(熊本) 酸が抜け、味が濃くなっています。

★イチゴ終了です。びわ・小玉西瓜はじまります。

★6月4日~青梅はじまります(近日中に予約表配布開始)。小梅の取り扱いはありません。

早くも炎天下の畑作業が始まり、連絡をとると「アツイ!アツイ!」を連発しています。
「丁度イイ」ということがほとんどなくて、「暑くて雨が少ない」とか「長雨で日照りが少ない」とか「また台風が来るってよ」とか、気掛かりなことばかりが続く今年の夏が始まりました。
百姓が追い込まれることが少ない夏であってほしいものです。

5月27日(日)神奈川愛川町・北原瞬くん&祥ちゃんの【おいしいとれたて野菜】大特価直売会やります!

~8年目の夏に向かって~

百姓にとって作物づくりより土づくりが全てだと思う。でも、この頃作物を育てる技を磨きたいとも思う。一歩ずつ百姓に近づいている気がする

2011年4月、東日本大震災のあった翌月に八王子の畑を借りて種を播いたのがはじまりです。その前2年間、千葉県成田のグリーンポートアグリというところで、有機農業のイロハから研修を受けました。
「いつか百姓になりたい」と思っていたのは妻の祥子で、ぼくは100%関心がありませんでした。「新規就農者説明会」に申し込んでいた祥子が当日熱を出して、ぼくが仕事を休んで行ったのがきっかけでした。
研修が終わって立派な卒業証書をもらったのですが、耕す畑がなかったのです。祥子の縁で八王子小比企の小杉さんを訪ねたのです。
畑を紹介してくれ、日々おこる「??」に助言してくれ、トラクターなど農機具も使わせてくれました。腐葉土だったせいか作物がよく実ったのですが、実は販売先を考えていなかたのです。
小杉さんに相談すると、「国立にあひるの家って八百屋があるから一緒に行くか」ということになったのです。
祥子は早朝仕事に行くため家を出るので、子供たちに飯を食べさせて保育園に送っていって夕方迎えに行くまでが百姓タイムです。だから、日中も休まず畑に出ていたので何度も熱中症にかかり、救急車で運ばれたこともありました。
3年が経ち、「定住できる所を」ということで今の所に引っ越し、翌年祥子も退職し、念願の百姓仕事に参入したのです。退職金でトラクターを購入し、早朝から祥子が乗りまわしています。
現在14ヶ所の畑を借りています。水はけが悪かったり、日当たりが悪かったり、傾斜地だったり、けして条件が良い畑は多くないので、いつか広くてフラットの畑を手に入れられたらと思っています。
「1000万円農家」というのが農家経営の目安と言われていますが、今は800万円/年位です。毎年毎年「今年はいけそうだ」と思うのですが、台風、長雨、雪などで実現できていません。
3人の子供たちはまだ小さいのでお金があまりかからないのですが、これからかかってくるので、もう少し売り上げなけりゃと思うのですが……。
27日(日)はとびきりの野菜を持っていきます。ドンドン育ってくるので、ドンドン買って食べてください!

【当日予定されるラインナップ】
大根・ミサキキャベツ・カリフラワー・リーフレタス・ズッキーニ・葉付人参ルッコラ・にんにく・長ネギ・この日畑にある野菜!!!

『あひるの家の冒険物語』 第16話  時代がおわり、時代ははじまる ―その1―

国立桃正飯店2階大宴会場に50名程が集いました。
“あひるの家10周年記念パーティー”が始まろうとしています。
集まったのはポラン広場の八百屋たち20名と、大地を守る会から藤田会長や徳江さん、天内さんなど提携グループの人たち10名、そしてあひるの家のお客さんが15名程でした。
お招きしたお客さんは、あひるの家スタッフ各人がリストアップした人たちです。ぼくは3名のお客さんの名を挙げました。
1人目は相さんです。
1977.9.5 リヤカー八百屋初日は、朝から雨が降りつづいていました。リヤカーを覆う赤いテントはまだ届いていなくて、庭先にあったゴザを掛けて出発したのです。
5軒ほど回って国立学園の前を通りかかったのは昼頃でした。この後連絡をもらっていたのは3軒で、時間があり余っていました。積んでいた野菜は濡れはじめ、雨具を用意していなかったので服もジーンズもビショ濡れで、重く体にまとわりついていました。「どうしたらいいんだろう」、気持ちはすっかり萎えていました。
向こうから傘をさしたご夫婦がやってきて眼が合ったのです。
「あなた、何やってるの?」と声を掛けてくれ、「あの角を曲がったところだから、今度寄りなさい」と言ってくれました。
相さんのお宅には月曜日と木曜日にお伺いしました。
相さんがいらっしゃらない時は、同年代の姉妹の方が出てきました。2人ともそれはそれは美しい人で、聡明で、弾ける笑い声の素敵な人たちで、いつも30分間程話しをするのがとっても楽しみだったのです。
2人目は田坂のばあちゃんでした。
旭通りに出店を出していた頃からよく顔を出してくれていて、スタッフとしちゃんに着なくなった服を手直ししてプレゼントしてくれたり、裁縫を教えてくれたりしていました。
ある日、店のレジに何人か並んでいる時、後ろの人の顔を見て、「あんた、テレビに出てたことがあるでしょう」と声かけたのです。
「ええ、以前」と戸惑いながら応えると、「そうかい、最近みなくなったねえ」と、話しかけるのをやめました。田坂のばあちゃんは、「売れなくなってテレビに出なくなったんだろう。カワイソウに」と思ったんだと思います。
でも、お客さんで元歌手の百瀬さんは“絶頂期に引退したんだけどなあ”と思ったものでした。
「あんた、そろそろヒゲをそっても八百屋できるんじゃないの」と言ってくれた田坂のばあちゃんの言葉は印象的でした。
3人目は松下さんです。
その頃、大学の先生になりたての松下さんは独り身でした。毎日のように店に寄って、お茶を飲んだりお喋りしていきました。
『ジャックと豆の木』がオープンする時は、スタッフ大森君と合羽橋に行って、鍋・フライパン・食器などを買い出しに行ったりしてくれました。
スタッフの個人的な悩みをきいたり、自分の恋の悩みを打ちあけたり、飲みに行ったり、イベント企画を一緒に練ったり、年末商戦の12月26日~31日まで毎夕顔を出して「どう、今日売れた?」と店内を見回し、売れ残りそうな物を買っていきました。
20名程の友人が集まっての結婚披露宴を『ジャックと豆の木』で催し、歓びと誇らしさで“松ちゃん”の表情は輝いていました。
松下さんはあひるの家の最良のパートナーとして歩んでくれた人です。
「10年でパーティーって早くないですか。30周年記念パーティーを楽しみにしています」という北千住『椿屋』村上君の激励の言葉や、「リヤカーの頃からそばにいて、今度は折れる、今度は駄目かなと思わせることが何回もあったのですが、そうなりませんでした。思うに、例えば綱引きをしていて膠着状態になって袋小路ダと頭をかかえている時、いつの間にか狩野さんは玉入れをやっているのです。そっちの方が面白そうなのです。つくづくネットワークはフットワークだと思うのです」という流通センター『夢市場』の小野田さんの述懐や、大地の藤田さんから「ポラン広場は目の中にできたグリグリみたいに気になるうっとうしい存在でした。この2~3年ご一緒することも多くなり、グリグリもとれて視界良好になりました。これからも力を合わせて有機農業を広げていきましょう」というメッセージをいただいたりしました。
にぎやかに、華やかに10周年パーティーの夜は更けていきました。

“あひるの家10周年記念イベント”が次々と催されていったのです。
その頃、大地を守る会を通じて知り合いになった河合さんの静岡内浦漁協への“とれたて鮮魚買い物バスツアー”や、前日からあひるスタッフが泊まりこんで、早朝あがった魚を大漁旗をなびかせながら持って来て、店の隣の会社のスペースをお借りして“直送!魚大卸売会”を催したりしました。鮮度のいい魚のエラは刃物のように鋭く、掌が血だらけになったりしました。
夏にはバスをチャーターして、群馬鬼押し出しキャンプ場に一泊。翌日は北軽井沢石田農園での農業体験など“サマーキャンプ”を催し、味噌づくり、パンづくり、餅つき、ティーパーティーと目白押しでした。
そして、「集客力のあるスーパーなどの近くで、角地単独スペースで駅のそば」と条件に見合った新店舗を、青梅線東中神にオープンすることにしました。
同時に、これまでの店舗販売配達、移動販売に加え、新たな販売チャンネルとして注文販売(宅配)をはじめることにし、新店舗2階の1室を借り、パソコンを導入し事務所を設けることにしたのです。
この頃、八百屋開業希望者が毎月のように訪ねてきました。その多くは脱サラご夫婦でした。
「お店をやるにはどの位かかりますか?」「どの位売れているんですか?」「子供2人いて月30万円位かかるんだけど」「お客さんはどうやって見つけたんですか?」「セールストークのポイントってあるんですか?」「高い高いって言われてるけど、どの位高いんですか?」「ポラン広場はどんなサポートしてくれるんですか?」「夫婦でうまくやっていける秘訣は?」・・・・・・・・・・・・
どう応えたらいいのかわからないことも多かったり、始めてみないとわからないこともあるのだけど、あひるの家や他の八百屋たちの例をあげて、開店費用、働き方や給料、野菜の値段の仕組みや、これまでだいたい1年目200万円/月で年を追うごとに100万円位ずつ売上げがあがり、粗利益は23%~25%位だから、それを目安に事業計画や家計の目安を考えてみたらどうだろうか、といった話しをしました。
八百屋開業希望者が帰られた後には、ぼくはいつも小さな苛立ちを感じていました。
「見る前に跳んでみたら」「レールは1本ずつしかつながらないんだから」「自分の答えを見つけないと」など、何度も出かかった言葉を飲みこんだからでした。
でも、考えてみたら、新しいことを始めようという時、不安要素を一つずつ潰してから決断しようとするのは当たり前のことです。ということは、“この八百屋の仕事”が仕事選びの1つになっているということなのです。10年前とも5年前とも違うのです。
話しをした3分の1が開業し、3分の2が断念しました。尋くと、開業決断はおかあちゃんがしたところが多かったようです。
あひるの家を人も羨む仕事場にしよう、と改めて思ったものです。
“半分は、あひるスタッフのため。半分は、これから出会う人のため”
内に向かっていたベクトルの矢は、外へ外へと放たれようとしているのでした。

畑だより ―直送野菜がピンチです!?

あひるの家が直送をお願いしている野菜・果物がピンチです。理由は運送費の大幅値上げです。
神奈川・北原君のところでは、運送会社から6月から運送費が2.2倍の提示がありました。他の運送会社にもあたっているのですが、難しいようです。
今でも大根・キャベツ・白菜など重量があってかさばる野菜の場合は、野菜代金より運送費の方が多いということがあります。これからはそれが常態化して、それを上回るということになりそうです。
TVCMなどでは「送料無料」とか「即日配達」などが大々的に宣伝されていますが、「それってどうなってるの?」と思ってしまいます。
栃木の鈴木章さん、田島さん、高田さん、茨城いちごの竹村さん、青森りんごの伊藤さん、いずれも同じ問題を抱えています。
「地元販売に力を入れていくしかないよね」
「でも、東京とちがって人口が密集していないので、直売所やファーマーズマーケッ
やっても成立しにくいんですよね」
「ともかく、ちがうやり方を考えてくしかないんですよね。慣行栽培~JA出荷の方法があるのだけど、おれは百姓やめるな」
サテ、天候異変も含めて、百姓を続けていくことの困難さが次々とでてきています。あひるの家としては、一緒に考える、育った野菜は引き受けるということをつづけていくつもりです。
で、北原君からは春満開!の野菜がでてきています。のらぼう・菜の花・チンゲン菜・春大根・春キャベツ・春ネギなど、期間は短いですが盛りだくさんです。
早くも海開きを迎えた沖縄からは、トマト・パプリカ・ピーマン・インゲン・ニガウリなどの夏野菜が始まっています。
九州鹿児島・徳之島・長崎から、きゅうり・空豆・ミニトマト・新じゃが芋・新玉ねぎがでています。行者にんにく・たけのこ・わらび・野ぶきももうすぐしたらでてきます。
苗はじまります。長野・吉沢さん、茨城・ハーブスマン福山さんからの出荷です。パセリ・青じそ・バジル・ミニトマト・ブラックチェリーミニトマト・日本なす・モロヘイヤ・ピーマン・レモンバーム・ローズマリー・パクチー……順次出てきます。出荷予定表と注文表をお配りしています。楽しんでみてください。うまくすると、ひと夏おいしく楽しめます。
果物は、甘夏・酸味香り際立つ黄金柑が南伊豆の山本剛さんからはじまりました。山の中腹に果樹園があるので、サルとひよどりとの争奪戦ですが、ともかく旨さがつまっています。
沖縄・石垣島・西表島からパイナップルもはじまります。
季節としては端境期なので野菜・果物が少なくなりますが、直送野菜が並んだ時はよろしくお願いします。

『あひるの家の冒険物語』 第15話  極北の大地にポランの旗をおったてる ―ともかく始めよう!―

―ポラン広場北海道発足―

1986年4月、千歳空港から室蘭本線に乗り東室蘭駅で降りました。
積もっていた雪が溶けはじめていて、歩くたびに足元には黒々とした土が顔を出し、むせかえるような土の香りが立ちのぼってきたのです。
「春だ、ついに春がきた」と、メモを見ながら歩いていった先にその店がありました。店先で猪狩君が待っていてくれました。
「いやぁー、ごくろうさんです。実は困った事が起こってんですよ」とニヤニヤしながら、まだ何も内装されていない店の中に入っていきました。
店の奥から女の人が出てきて、「わたしは何もきいていないからね。話すなら店の外でしてね!」とえらい剣幕で外に追いだされたのです。
店の外で立ち話しといっても寒いので、2階の猪狩君の部屋にあがらせてもらいました。
「いやぁ~、朝から大荒れですよ。包丁は飛ぶわ皿は割れるわ、命がけですよ。イヒヒヒ」と、前歯が1本欠けた顔で笑っているのです。「サァ、あんたのお手並み拝見」と言っているようです。
猪狩君はポラン広場の八百屋『蟹屋』のスタッフとして川崎で働いていて、富盛さん(女の人)は横浜で反原発や自然保護の活動をしていて、その中で知り合った仲だそうです。富盛さんが地元に帰って自然食品店を開くので手伝ってほしいと言われ、やってきたということです。
「どうせならポランのネットワークの八百屋の方が面白いんじゃねえの」と連絡してきたのですが、富盛さんの説得・同意ができていなかったのです。
その夜は富盛さんのお宅に泊めてもらうことになりました。
「よく東京から」と、お母さんがテーブルいっぱいの料理を作ってくれ、お風呂もよばれたのですが、富盛さんは顔を出しません。ぼくは、いつ「出てってよ」と言われるか落ち着かないのです。
「保枝~、失礼でしょ、せっかく来てくれているのに」と、お母さんが幾度か声をかけてくれ、ふくれっ面の富盛さんがテーブルについたのです。
自己紹介やポラン広場の説明をさせてもらうのだけど、ぎこちない間が続くのです。隣で猪狩君はヘラヘラニヤニヤ笑っているばかりです。
お互いの学生時代の話しになり、その頃ぼくのバイブルだった奥浩平(学生活動家・遺稿集『青春の墓標』が当時の学生の共感を得た)の話しをすると急に体をのり出し瞳を輝かせ、表情がほぐれていったのです。
道内に売ってくれる所がないから、じゃが芋・玉ねぎ・人参・南瓜の「カレーライス畑」しか作れず、「百のものを作れる百姓になりたい」と八百屋の誕生を待っている百姓のことや、従来のピラミッド型組織ではなく、フラットでパラレルで小さくて大きなネットワーク集団づくりを一緒にやっていきたい、といった話でした。
一番盛りあがったのは、札幌から高校2年で転校した時の話しでした。
住んだ所が歌舞伎町から10分のとこで、真夜中になると肌もあらわなネエチャンたちが帰ってくるのです。兄貴と2人、アパートの2階の窓を少し開けて覗くのです。「トウキョウはスゴイな~」と、16才と18才の兄弟は熱い吐息をもらしていたという話しでした。
翌朝、「ポラン広場北海道をつくっていこう」と約束して札幌へ向かったのです。5月、ポラン広場の八百屋として『ぐりんぴ~す』がオープンしたのです。
札幌では流通センター『HAVE札幌市場』をはじめようとしている滝沢君(通称“座長”)と、只今免許取得中で八百屋『らる畑』を開業予定の橋本早智子さんが待っていてくれました。
滝沢君はかつて唐十郎赤テント七人衆の一人として活躍し、今は劇団『極』の座長として道内で名高く、「脇の下に翼をもったポランという鳥をみたいから」とポラン広場に加わってきたのです。一人でリヤカー八百屋をやっていた早智子さんは、「冬場も八百屋をやりたい」とトラックで移動販売に挑戦しようとしていました。
流通センタースペースは同時に劇団『極』の稽古場にもなっており、滝沢君はじゃが芋やキャベツや醤油にかこまれたスペースに寝袋を持ちこんで寝泊りしていました。
1986年8月、ポラン広場北海道が発足しました。1センター2販売グループ計5名で、センター売上げは月120万円位、スタッフの月取り分は3万円~5万円位でした。
翌年には札幌で『わいわい』『グリーンハウスパンプキン』『りんご村』、江別で『ども』、苫小牧で『どんぐり屋』、滝川で『やなさん商会』と拡がりをつくり出していったのです。
秋冬の「カレーライス畑」の道外送りを一手に引き受けたことで、ポラン広場東京・埼玉・関西の伸びに合わせ、HAVEセンターの経営も一息つくとこまで行きついたのです。

―その頃あひるは―

北海道から戻るとあひるの家の店先には甘夏・はっさく・伊予柑・ネーブル・タンカンなどの柑橘類や、ふじりんごなどが色とりどりに並べられていました。店内から喚声がきこえてくるのです。
あひるスタッフと何故かお客さんをまじえ、ジャンケン大会がはじまっていたのです。尋くと、お客さんで国立在住の元歌手の百瀬さんのお宅に誰が配達に行くか決めているのだといいます。スタッフ折茂君が勝ったようです。
「あの~、ちょっとアパートに帰ってきていいですか。シャワー浴びて着替えてきたいんですよ。ここ3日位、久木原さんの所に泊まっていたもので」と、Tシャツをクンクンとかいでみせるのです。
配達から帰ってきた折茂君は、「お母さんしかでてこなかった」としょんぼりしていました。
この頃のスタッフは全員20才代~30才代(久美さんとぼくを除く)でした。鹿児島でバーを営んでいて、駆け落ちして国立に住みはじめた久木原君。久木原君の竹馬の友で服飾メーカーに勤めていたスタイリッシュな東元君。東元君の同僚で百姓志向(連れ合いの悦ちゃんは)、夢市場センターに勤めた清水君。サイボーグと言われる程疲れというものを知らない鈴木君。在国立、出入りしているあいだに大学4年生で中退、母に泣かれた折茂君。ジャックと豆の木の澄ちゃん、恵理ちゃん、みっちゃんも20才代前半で、アルバイトスタッフは10才代の学生も多くいました。フレキシブルでパワフルでスタイリッシュなあひるの家に一新されていきました。
お店は来店客数が200名を超える日も出てきて、狭い店内がいつもごったがえしている状態でした。月売上げが優に1000万円を超えつづけ、それとともにぼくたちがやってきた事が社会に評価されつつあるのだと、自信と確信を持ちはじめたのです。
翌年の「あひるの家10周年記念連続イベント」のプランが話しはじめられ、メインイベントは「あひるの家新店舗オープン」でした。
『ポラーノの広場』(宮沢賢治作)の最終章の「あしたも元気のでる広場」「きっとできるとおもう。なぜなら、ぼくたちは今それを考えているのだから」を胸に、極北の大地をポラン広場の仲間たちは今日も駆けつづけているのだろうし、ここあひるの家ではその一端が実現しつつあるのだと思えるのでした。

『あひるの家の冒険物語』 第14話  ある日、あひるで……

多摩川に架かる関戸橋にさしかかる頃には夜が明けはじめていました。
橋を渡って川沿いに行くと、京王線と交差する一画に流通センター『夢市場』があります。道の途中にはポラン生産センターパン工房があり、午前2時から始めていたパンも焼きあがり一息ついている様子が見てとれ、窓ごしに手を振ってくれる者もいます。
センターの敷地には既に4~5台のトラックやワゴン車が止まっており、20人程が白い息を吐き出しながら荷物の積み込みをはじめていました。
「おはよう!」「おはよう!」と声を掛けながら、空いているスペースにトラックを止めました。『自給の邑』(相模原)の高岡君や『KIVA』(青梅)の吉沢君や『源五郎』(川崎)の川井君カップルの顔もありました。夢市場スタッフの河辺君が、12本入り牛乳ケースを3箱も積みあげ軽々と運んでいます。
「遠いところを送り出そう」ということで、久木原君とぼくは源五郎の積み込みの手伝いにいくと、トラックの横で源五郎の恵さんが夢市場農産担当の遠山君に納品伝票を片手に詰め寄っているのです。
「キャベツ頼んでいないわよ。10ケもきてるじゃない。アッ!ブロッコリーもカリフラワーもまだたくさん残っているのに」
寝惚け眼(のふりをしている?)の遠山君は、「いや~、キャベツはひと雨きて割れそうだし、ブロッコリーも花咲きそうだからとっちゃうよと百姓から電話あったんですよ。いや~、困ってしまいますよね」と、のらりくらりと返事をしている。
久木原君とぼくは、「いっちゃえ」とドンドン積み込んでいく。
一緒にやっていたKIVAの吉沢君が、「キャベツ、うちで引き受けようか」と声を掛けると、「いや~、助かりますよ。寝てないんでコーヒー飲んできます」とニヤニヤしながら事務所に入っていきました。
その間も『蟹屋』(藤沢)や『じんじん』(町田)、『結』(阿佐ヶ谷)のトラックが入ってきて、敷地内はいっぱいです。
パン工房の九重さんがやってきて、「アンパンつくってみたんだけど、食べてみて」と配りはじめたのです。
機嫌を直した恵さんを乗せ源五郎のトラックが出発。「しっかり売れよ~」「仲良くやれよ~」と手を振って送り出したのです。
雨が降って晴天が続いたせいで、どの野菜も注文量を上回っていました。キャベツ20ケ→30ケ、ほうれん草30ワ→50ワ、ブロッコリー20ケ→35ケ……。「今日は豆の木にキャベツとほうれん草を使ってもらおう」などと思っていると、8時あひるの家に到着したのです。
東元君、清水君、折茂君、鈴木君、少し遅れて久美さんが待ちかまえていて、満載のトラックから荷物をおろしはじめるのです。店分、トラック引き売り分、牛乳配達便分と各々仕分けをし、コーヒーを飲みながら今日の入荷状況とポイントを確認し合うのです。
各人が準備にとりかかると、店の奥の台所で久木原君がまかない飯を作りはじめるのです。今日はカレーのようです。何故かいつも味噌汁がでてくるのです。
9時、『ジャックと豆の木』スタッフの澄ちゃんと恵理ちゃんがやってきて、キャベツとほうれん草と豚肉を使った料理を考えはじめるのです。11時半開店です。
10時半トラック引き売り、11時牛乳配達便のスタッフがカレーをかきこんで出発しました。
天気が良いのでお客さんの出足がいいようです。壁も扉もない店内には冷たい風と枯葉が吹きこんでくるのですが、カレーの香りが漂い食欲をそそります。
12時が過ぎると店の横の私道にテーブルと丸椅子が用意され、カレー、味噌汁、いわしの丸干しが並べられ、スタッフが交代で食べはじめるのです。
自転車に子供をのせたお客さんがやってきて、「おいしそうね」と笑顔、「食べていくかい?」と子供に声を掛けると「ウン!」と嬉しそう。5~6人がお喋りをしながら食べるのです。昼営業を終えた豆の木スタッフ、みっちゃんを加えた3人が降りてきて食べはじめるのです。12時~3時位まで私道を専有する毎日でした。その頃、店からの配達便もスタートしていきました。
朝積みあげられていたキャベツも大根もほうれん草もなくなりつつありました。
「キャベツ買ってくんなきゃレジ打たない」という脅しや、「お願いしますよ、明日もどんどんくるんで、夜、闇にまぎれて多摩川に捨てにいかなきゃならないんですよ、お願いします」という泣きのセールストークが功をそうしたようです。
その度にお客さんとの丁々発止で笑い声が起こり、買い物カゴにはいつのまにかキャベツが入っているという事態が続いたのです。
店内には「WHAT IS ORGANIC?」のポスターが貼られ、インフォメーションボードには「2月18日(日)新潟上越から星六味噌の星野さんがやってくる!味噌づくり教室参加者募集中!※星六さんはヘンクツですが悪い人ではありません。ただし喫煙者接近遭遇禁止です」という催しのお知らせが貼ってある。
6時を過ぎると店配達便の鈴木君が、牛乳配達便の清水君が、トラック引き売りの折茂君が戻ってきて、店の奥で売り上げを数えたり、注文を集計したりしはじめるのです。
7時閉店。久木原君が各々の売り上げと店売り上げを数えはじめ、「今日は42万円でした。よくがんばった、オシマイ!」と報告し、「今日さ、鹿児島から豚肉送られてきたんで、おれんちで食べる人?!」と声をかけると、ひとり者全員が手をあげるのです。
2Fのジャックと豆の木にあがると、常連の一橋の吉村先生や小平の養鶏家青木君や、武蔵小金井『苫屋』の畑中君の顔も見える。久木原君が「今晩来るかい?焼肉だけど」と声を掛けると、豆の木スタッフ全員が「終わってから行きま~す」と即返事。苫屋の畑中君も「行く」と表明。吉村先生も青木君も行きたそうなのだけど、言い出せない様子。
ほぼ連日、久木原君のところになだれこんで、飲んで食べて歌って泊まって、翌日店に出てくることが多いようでした。
「活気とか熱気というより、狂気漂うという感じですよね」と呟いたのはスタッフ折茂君だったけど、毎日が祭りのような日々だったのです。

畑だより ―八百屋なのに野菜がない!なんで??―

あまりにも野菜がないので、他はどうなのだろうと休みの日に近所の安売り八百屋さんに行ってみました。
いつもお店の前を通ると「安いよ!安いよ!」と威勢の良いテープが流れているのですが、聞こえてくるのは「高いけど、甘いほうれん草」「高いけど、鍋にかかせない白菜」と枕詞がついて、値段はアナウンスしていません。
店内に入ると、「レタス¥499」「白菜¥700」「ほうれん草¥350」「小松菜¥270」と見たこともない値段が表記されていました。「年末はもっと高かったんだろうか?」「あひるの方が安いじゃん」と思ったりもしました。
一般市場では通常の2~3割の入荷量ということですから、値段が3~4倍に上がるのは当然のことだと思います。ということは、本来出荷できていた農家の7~8割が出荷できない、収入がないということになります。
なんでこういう事態になっているかというと、
1)10月中雨が降り続き、記録的な日照不足だった
秋冬野菜がグ~ンと生育する時に、根腐れ・倒伏・病気・生育不足等、大ダメージを受けた。
2)年末に無理してある野菜を刈り取った
無い訳にはいかないよな、ということでなんとか出荷できそうな野菜をチョイスして出荷した。
3)年明けも寒く、雨が降らず生育しない
畑にはあるのだけど、全く大きくならない。この後雪が降ったりすると、ほうれん草・小松菜などの葉野菜の茎が折れてしまう。
1)~3)は、あひるの家が直接おつき合いしている関東近郊のお百姓の畑の状況ですが、全国的にも同じ様なものだと思います。
更に、暖流が流れているから冬野菜(キャベツ・ブロッコリー・カリフラワー・セロリ・大根など)のメイン産地の愛知・渥美半島の天恵グループの畑に霜が降り、雪が降るという異変で多くの作物がダメージを受けました。次の畑の作物が育つ1月下旬~2月上旬まで回復は見込めません。
いくつかのつき合いがあるので、出荷を打診してみようと思っています。品質・栽培は確かなのですが、値段が高いかもしれません。緊急対応ということで、おつき合いください。
それにしても大変な年のはじまりです。この後おだやかな1年であってほしいものです。
今年も畑とのおつき合いをよろしくお願いします。

畑だより ―正月野菜はあるのだろうか?―

街に住んでいるとすっかり忘れてしまっているのですが、8月には2度台風がきて雨が多く、10月は長雨が続き日照時間も記録的に短かったのです。その影響で、畑で野菜の収穫がほとんどできない状況が続いていたのです。
まず、8月には実っていた夏野菜が台風と雨でほぼやられ、秋冬用の苗も全滅しました。播きなおしたり植えなおした野菜も、10月の天候で病気がでたり育たなかったり、収穫できたのはわずかでした。
神奈川・北原君(12月10日直売できます。励ましてください!)と話していると、「あひるはいいっすね。野菜がなくても豆腐やパン売ればいいんですからね」とひがみっぽく言われてしまいました。
「野菜が高くて困ってる」というニュースはあっても、それが百姓の失業状態や廃業につながっているというニュースはあまりありません。
よし11月!と思った矢先急に冷え込んで、ブロッコリー・カリフラワー・レタス・サニーレタスなどが霜にあたって傷んでしまいました。
散々の今年の後半でした。
サテ、いよいよ年末です。
関東のお百姓たちには申し訳ないのですが、この時期から野菜の主産地が愛知県渥美半島の天恵グループに移行します。黒潮のせいで暖冬で、霜もありません。
キャベツ・大根・セロリ・サニーレタス・ブロッコリー・カリフラワーなどが入荷します。
小松菜・小かぶ・柚子が潤沢にありそうでホッとしています。
他の野菜はほぼ全て△印(少量入荷・早期終了)になっています。ほうれん草・ちぢみほうれん草・春菊・水菜・八つ頭・金時人参・ゆり根などです。切り三つ葉・インゲンは27日~極少量入荷です。
野菜は12月25日~30日まで連日入荷します。
果物は、竹村いちご(茨城かすみがうら)はじまりました。井場さんのみかん(瀬戸内海高根島)は小粒だけど味が濃くなり、伊藤さんのりんご各種(青森弘前)も味が深くなりました。
バナナ・キウイフルーツ・ネーブルも入荷中です。
残り3週間、好天が続いて百姓たちが少しだけホッとできるといいですね。
寒くなってきた、体調に気をつけて。

『あひるの家の冒険物語』 第13話  細部に神が宿るポラン広場ネットワークを全国へ!Sec1


―海をながれる川を見に行く―

その日、ポランスタッフ4名と大地を守る会(大地)の徳江さん・西村さんの6名は、1台のワゴン車に乗って東北道を北に向かって走り出したのです。
朝食にと買ってきたパンやおむすびやコーヒーを食べたり飲んだりしながら、大地のことやポランのことを話したり、徳江さんのお父さんが窒素工場長をやっていた時育った水俣のことや、学生運動をやって刑務所で服役した時のエピソードなどを西原さんが語ったり、合い間には井上陽水の『おいで上海』や吉田拓郎の『落陽』やサザンの『いとしのエリー』などを大音量でかけ大合唱し、道中は大盛りあがりでした。
着いたのは宮城県奥松島、迎えてくれたのは180cmはあろうかという高倉健よりいい男の30才半ばの漁師二宮さんでした。
「さあ、さあ」と招き入れられた海辺の食堂の座敷には、殻付カキ・カキフライ・カキ鍋・カキのオイル焼き・酢カキなどの料理が並び、酒と焼酎の一升瓶が10本位用意されていました。
「これはヤバイ!」と体がこわばるのです。「さあ、今朝あけたばかりのヤツだから、やってください。グッとあけてバアッと食べてください!」「あっ、ありがとうございます… いただきます…」
ポランの連中を見るとチュルチュル、ズルズルとカキに食らいつき、酒をグイグイあおり、「ウマイ!ウマイ!」を連発しています。
「まいったなぁ…」と少しだけ酒を口にふくみ、カキをのみくだす。あわててテーブルを見回し、キュウリと白菜の漬物に手を伸ばす。ついでに味噌汁をのむと、なんとカキが顔をみせたではないか。急いで店の外に出たとたん、吐き出してしまったのです。海で顔を洗い口をすすいでも、100年ものの汚水を飲んだような臭いが口中に広がり、涙目になりながら、「カキなんか、酒なんか大キライだ!」とうめきながら海辺を歩いていたのです。
座敷に戻ると二宮さんが、「明日はオレのカキ場に連れていくからな。よーし、飲みにいくぞー」と声を張りあげているのです。連れていかれたのは少し大き目のカラオケスナックでした。
肌もあらわなネエちゃんが隣に座り、「えーっ、飲めないの。じゃあ歌おうよ」「いや、唄うのはどうも…」「うっそぉー、じゃあダンスしよう」「いや、踊ったことないもので…」「ダイジォーブ、わたしがリードしてあげるから」体を密着させて、ただ揺れているだけです。耳元でネエちゃんが「今夜どこに泊まるの?」とささやき、指先に股間にはわせてくるのです。体は反応するのですが、先程のカキショックで気が乗らないのです。
席に戻ると西原さんが、「代表の番だよ。ホレホレ」とはやしたてる。
「じゃあ、えーと、琵琶湖周航の歌を歌います」いっぺんに座が白け、この日は解散となったのです。
翌早朝、雹雨の中震えながら揺れながら小舟で沖合50メートル位のところまでいったのです。
「海が盛りあがっているだろ。川が流れこんでるんだよ。こういうところが最高の漁場なんだよ。だからうめえんだよ、おれのカキは」
「海を流れる川か」と、蛇が体をくねらせているような海面を見ていると、二宮さんが「さあ、どんどん食ってくれ。酒もあっから」と網をたぐりよせ、カキを手渡してくれる。ぼくは船頭の二宮さんの背に座り、回ってくるカキをどんどん海に捨てたのでした。「あ~あ、終わった」と船を降りたら、「オレの加工場案内すっから」と3人のおばさんたちが薪ストーブにカキをのせて待っていてくれたのです。
帰路、2日間にわたる“酒とカキの日々”にうちのめされ、後部座席で寝込んでしまったのでした。
このように、大地とポランは産地を分かち合う関係を築いていったのです。ともにこの仕事をして10年余りが経とうとしていました。次のステージへのステップアップ・スケールアップが求められていたのです。
大地は“大地と海の連合構想”を掲げ、ポランは“ネットワークの開国開城”を掲げつつあったのです。大地は海産物・畜産物を紹介し、ポランは農産物・加工品を紹介し、ともに生産者・製造者を応援する協力関係をつくっていったのです。あひるの家の冷蔵棚には、牛乳・ヨーグルト・生クリーム(静岡・丹那)、豚肉・ハム(埼玉・入間)、ちくわ・カマボコ(宮城・塩釜)、牛肉(盛岡・山形村)、干物(静岡・内浦漁協)などが並べられ、売上げが急上昇していくのでした。
発足間もないポラン広場が急速な伸張を果たせたのは、大地のサポートに因るものだったのだと思うのです。

―あれから1年、わたしたちは…―

1985年3月第2回ポラン広場全国大会が吉祥寺の武蔵野公会堂で催されました。350名定員の会場は、座り切れないほどの熱気に包まれていたのです。“はじまる”“元気がでる”“勢いがでる”そんなことを予感させるものでした。
百姓たちも北海道~九州まで70名程が集まり、畜産・水産・加工にたずさわる人も50名程になり、この間全面的なサポートをしてくれた大地を守る会から藤田会長をはじめ10名程がかけつけてくれ、一般来場者は200名程でした。
前夜から泊まりこんでいた関西・埼玉・東京のポランスタッフ50名は、交流会の飲食の準備や宿泊先との連絡や来場者の案内などを弾むようにこなし、満面の微笑を浮かべていました。
ステージには「細部に神が宿るポラン広場ネットワークを全国へ!」と記された横断幕が掲げられていました。
第Ⅰ部 大野和興さん(農学者)「有機農業の未来は」
金子郁容さん(一橋大学助教授)「未定」
第Ⅱ部 生産者の紹介・会場での車座トーク
大野さんの話しが終わっても、金子さんが到着していないのです。
10分程して会場通路から壇上にかけ上がってきた金子さんは、ジージャンに白のスニーカー、レイバンのサングラスに両手にはハンバーガーとコーラというスタイルでした。
「すみません、遅くなっちゃって。授業が長引いちゃって、車とばしてきたんですけど。あっ、食事してないもんで、食べてもいいですか」と食べはじめたのです。
金子さんとの出会いは、増田書店で見つけた『ネットワーキングへの招待』(中公新書)という本でした。一橋大学に連絡し、つないでもらって、ジャックと豆の木で会ったのです。15年余りアメリカで大学生活を送っていた金子さんは日本語がたどたどしく、ぼくは英語がたどたどしいなんてもんじゃないので、なかなか会話が進みません。それでも、ネットワークの真髄のようなヒントをたくさんもらいました。
基本ベジタリアンの金子さんは、学生をつれてジャックと豆の木によく食べにきてくれました。本の出版を契機に「ネットワーク新時代の旗手」としてテレビ・新聞で注目され、その中でポラン広場のことも紹介してくれたりしていました。
そんな金子さんをみんなにも知ってもらいたいとお呼びしたのです。
ところが、会場の人達やポランのスタッフの多くが嫌悪の感情を抱いたことが伝わってくるのです。
「ヤベエなこれは。金子さん、やりすぎだよ」とオロオロしたのです。食べおえた金子さんは、
「今の社会で解決できない問題が3つあります。環境・医療・教育です。いずれも人間が主に関わっている事柄です」
「何故解決できないと思いますか?3つに共通しているのは多様性ですよね。取り組む組織に多様性がないからです。内部の質でしか外部と結べないということです」
「ピラミッド型組織の限界が言われはじめ、ネットワークがもてはやされていますが、和合と補完どまりです。ネットワークの最も大切な要素は、反論する関係をどうつくっていくか。それが最も重要なのだと思えるかどうかです」
アメリカでの様々なネットワーク活動のスタイルを紹介し、最後に「ポラン広場に期待できるかもしれないと思ったのは、さっきぼくが喋っている時も子供たちがステージに上がって走りまわっていましたよね。ポランのスタッフは当たり前のように見てましたよね。こういう文化は新しいと思いますよ。授業があるのでこれで」と、高く手をあげて壇を降りていきました。
拍手がわいたのです。ぼくたちの何かを刺激し、なによりも格好良かったのです。
休憩をはさむと、会場ではいくつもの車座ができ、生産者が持ってきたお土産を食べはじめ、お酒も持ちこまれ、集会は宴会と化していったのです。
案の定、会場管理者から「使用中止!即刻退去!」が通告されたのです。食べ物や飲み物をトラックに積み込み、宿泊所である新宿の早稲田奉仕園別棟に運び込み、30畳の部屋に100人を超す人たちの宴が続けられたのでした。
あふれた者たちは建物の外で車座になって飲み、眠たくなったらトラックの運転席に潜りこむのでした。
時はすでに2時を回っているのに、部屋の中は熱気というより狂気をはらみつつあるようでした。身体の中からいくつもの気泡が浮かんでは吸収され、また浮かんでは吸いとられていくようでした。
叫びだしそうになったぼくは外に出て生け垣に登り、満天の星を仰いだのです。月の光が凛と澄みわたり、ぼくは大きく肩を上げ、息を吸いはきだし、何度も繰り返すうちに涙がとめどなくあふれ、頬を伝わっていきました。
橙色の部屋の明かりと、聞こえてくるざわめきを眺めているうちに圧倒的な眠気がおしよせ、ぼくは底無し井戸に落ちていくように夢の中に引きずりこまれていったのでした。