Author Archives: kano

『あひるの家の冒険物語』 第6話  時は巡る

岸君が亡くなった。

茨城玉造町の自営農場の開設が迫っていました。
あひるの家からは仁君とむっちゃんのカップルが移住することになり、トラック販売の担い手を探していました。農場で養鶏を担当する2人にとっても、ヒヨコの入舎が迫っていました。
仁君が農場開設準備を手伝ってくれていた若者を連れてきたのです。大学を休学中だという岸君は、さっそく仁君のトラックに同乗し、引き継ぎをはじめたのです。
その頃、世田谷で『もんぺの八百屋』をやっていたぷかさん(タバコをプカプカくゆらしているから)と、織物をやっていたウリちゃんが加わってきました。リヤカー八百屋で腰をいためたぷかさんは出店と店を、小柄で華奢なのに芯が強くて甘え上手なウリちゃんはリヤカー八百屋をはじめました。
国立市西区にあるオンボロアパート大原荘(玄関トイレ共有・風呂ナシ・6部屋)は、あひるスタッフの住処になっていました。6部屋の内4部屋はあひるスタッフで、あと2部屋は、よく訪れた旅人たちの無断宿泊所になっていたようです。
引き継いでから1ヶ月、元々口数の少なかった岸君は、ますます口数が少なくなり、疲れがたまってきているようでした。
ウリちゃんからチョッカイを出されニヤッと笑う時もあるのですが、大原荘では皆の輪に加わることも少なく、「疲れたから寝る」という日も多かったようです。
その前の日、ミーティングをしている時だるそうにしていたので、「熱ありそうだから早く帰った方がいいよ」と言われ、早目に引きあげていきました。
翌朝、10時になっても出てこないので、「オレちょっと見てくるワ。熱出てるかもしれないし」と大原荘に向いました。
「岸!どうした?具合悪いか?」と部屋のドアを開けると、布団の中で仰向けに寝ていました。枕元には今日のコースの地図とつり銭箱と、脱ぎ捨てたジーンズやシャツがありました。
声をかけても目を覚まさないので、「おい!岸」と肩口をゆさぶりました。グラグラと揺れるのです。その感触と、部屋に入った時に目に入った「アレッ!」と思った光景が浮かんだのです。
見ると炬燵のコードが布団の中に引き込まれていました。布団をはぐと、コードはパジャマの中まで続き、左胸にガムテープで固定されていました。
救急車を呼び、山梨甲府の実家に連絡しました。
警察の検証がはじまり、お母さん、お姉さんが駆けつけてきました。刑事とお姉さんに様子をきかれたりしましたが、「お店で待機していてください」と言われ、戻っていました。当然、お母さんやお姉さんから詰問され、刑事からは事情聴取があるものと思っていたのです。
夕方、「遺留物預り証」を持って刑事が来た時に、お母さんもお姉さんも岸君の遺体も、既に甲府に帰っていったことを知るのです。
後日、武重君とお墓参りに行ってきました。甲府駅前にある大きな肥料問屋が岸君の実家です。
線香をあげさせていただき、バスに乗って山間にあるお墓に花を手向けました。この時も、親御さんから「うちの息子、八百屋の時はどうでした?」などという話しもでませんでした。
帰りの電車でぼくは、哀しくて悔しくて仕方ありませんでした。「疎まれている」気がしてならなかったのです。八百屋もそうですが、岸君が生きてきたことが疎まれているように思えてならなかったのです。

梅雨の続く夕方、カウボーイハットにベストのウエスタンスタイルの青年が訪ねてきました。
今村昌平監督の横浜映画学校の入学申し込みの帰りに寄ったということで、八百屋が紹介された雑誌を持っていました。
栃木の真岡市からやって来た光内君のおじいちゃんは民間農学者で、有機農業に精通し、自分も関心があったとのことです。
「映画やめて八百屋やらない?」
「いいですねえ」
「住むとこあんだけど、前のスタッフが自殺しちゃって。そこなんだけど」
「ぼく、その人知らないから気にならないですけど」
「給料7万円位なんだけどいいかな?」
「いいですよ。足りなかったら親に送ってもらうから」
そのあっけらかんとした明るさとこだわりのなさが、鬱屈していた空気を取り払ってくれるようでした。
10日間休止していたトラック八百屋が再開されたのです。
11月、大学通り緑地帯で野菜を並べ売っていると、歩道を軽快なフットワークで走ってくる若者がいました。
黒のニットの帽子をとって、「北海道富良野の阪井です。八百屋やらしてください」と自己紹介した阪井君は、そのまま大原荘に住みはじめ、「織物づくりに専念したい」というウリちゃんに替わってリヤカー八百屋をはじめたのです。
富良野麓郷の農家の息子阪井君は、百姓が嫌で東京に出てラーメン屋で働きながら、プロボクサーのトレーニングを積んできたそうです。4回戦ボーイまでいったけど、顎が弱くてボクサーを断念してオヤジの仕事を手伝っている時、この八百屋のことをテレビで観て書きとめておいて、収穫が終ったので出てきたということです。
「有機農業のことを勉強したい。ただし、雪が解ける3月一杯まで」という条件でした。
百姓をやっていただけあって野菜への情熱と知識は豊富で説得力もあり、更にスリムで軽快で恰好いい訳ですから、お客さんの人気も売り上げも上がる一方でした。
12月頃から、夕方になると店の前に焼き芋屋のリヤカーが止まっていることが多くなったのです。新潟の小千谷から出稼ぎに来ている五十嵐青年が焼き芋をプレゼントしてくれ、お茶を飲んでお喋りをしていたのです。
お目当ては藤井さんでした。「嫁にこないか」ということのようです。
フェミニズムの活動をやっていたシティーガールの藤井さんにとって、米と西瓜の産地で、ガチガチの農村で暮らすという選択は、五十嵐君への想いを含んでも決断するのは大変悩ましいものがあったと思います。
そこで、藤井さんは3つの提案を出したのです。
「家族経営をやめる。法人化して、労働時間や給与など働き方を明確にする」
「両親とは別に住居を構える」
「米・西瓜の栽培に加え、新たに花などの栽培をはじめる」
この提案の全てを五十嵐君は受け入れ、両親を説得し、出稼ぎが終った春3月、藤井さんは五十嵐君とともに新潟に向いました。

プロジェクト・イシの活動も拡がりを見せ、拡がった分矛盾も拡大していきました。
ぼくはプロジェクト・イシの関西担当になって、大阪に出向いて、関君と八百屋志願者や百姓と会ったりしました。
あひるの家の経営的・人的安定が必要条件になっていました。経営的には、売上げの7割がトラック・リヤカー2台・出店販売が占め、人のやりくりに苦渋していました。店の販売力向上がどうしても欠かせないものでした。
そんな時、国立東1丁目の角地に一戸建ての賃貸物件がありました。ぼくは、「コレダ!ここならやれる!」と、そう思い込んでしまったのです。
スタッフ5人に相談してみると、全員が保留或いは反対でした。怖気づいたぼくは、まもなく富良野に帰る阪井君に相談したのです。
「失敗したらどうしようかね。やったはいいけど、オレ一人ってこともあるし」
「八百屋のことはわかんないけど、百姓って失敗って思わないんだよね。また春が来ると種を播くんだよ」
借りようとしていた店舗物件は一階二階合わせて家賃25万円/月、保証金550万円という、考え及ばない金額でした。7万円/月の家賃でやっとやっている現状から見て、「借り入れは?」「採算は?」など試算するのも無駄な、無謀な事だったのだと思います。
「あひるの家の債券」というペーパーを発行したのです。「一口一万円・一年据置・二年返済・無利息」というものです。
お客さんや八百屋仲間、友人知人にお願いしたところ、債券の購入額は500万円近くにのぼりました。
「お客さんの阿部さんが債券代として10万円置いていったよ」ときき、阿部さんのお宅にお伺いすると、「ウン、ウン、あとでお店に行くから」とあわてた様子。「おとうちゃんが家にいたから、きっとヘソクリなんだろうな」というお客さんや、「今のところ使う予定ないから」と銀行窓口から50万円を下ろし、「いつでもいいから」と手渡してくれた元職場の同僚の村田君や……、50名近いお客さんが債券を購入してくれました。
それと東京都の融資350万円を合せて、賃貸契約と改装費の目途ができたのです。

新店舗移転は、「見るまえに跳べ」そのものだったと思います。こちら岸に戻る小舟は用意されていませんでした。
さてさて、どうなることやら……。

『あひるの家の冒険物語』 第5話  夢を馳せる

1978年12月、プロジェクト・イシが発足しました。
八百屋の次に向けて考え、行動するプロジェクトをすすめていくテーブルのはじまりです。
国立の西にあひるの家の店舗を開いてから3ヶ月たらずの頃でした。その年の初夏、八百屋の集まりで流通センターJAC代表の荒田君から出された1枚のペーパーがきっかけでした。
「俺達1人1人の八百屋への関わりは多様だ。俺達は決して売ったり運んだりすることで充たされていない。俺達のもつ多様な目的や価値観を、可能性として結んでいけるテーブルが必要なのではないか?そんなテーブルを設けることで、個人の限界を突き破る新しい生き方をつくりあげることができるのではないか?」
「そんな自主運営、自営自立のテーブルをプロジェクト・イシ(ヤヒ語で“もっとも人間的な”という意味)と名付けたい」
集まりの最中に出た、農家が山林を売ってもいいと言っているという話しも含めてあひるスタッフ4人に報告すると、仁君とむっちゃんは「自分たちの農場を持つんだ!いいなぁ、やりたいねぇ」と目を輝かせ、藤井さんは「ステキ!ステキ!」とはしゃぎ、武重君は「写真とってこよう」と大喜び。
「エーッ、みんないなくなっちゃうじゃねえかよ。誰があひるやるんだよ」と、暗澹たる気持ちになってしまいました。

初めての年末商戦は、注文表をつくったり集計したり、店頭に「大売り出し」の旗をたてたり、初めてづくしのことばかりで活気にあふれていました。
「会社のお客さんにお歳暮として届けたい」とみかんを20ケース注文してくれた人や、「調味料をセットにして送りたいんだけど」と言われ、各々の家にあった空箱や包装紙を持ってきて、「高島屋の包装紙だけどいいですか。あひるマークのスタンプおしておきますけど」と対応してみたり、「商売してるなぁ」と実感する5日間でした。
1人3万円の大入り袋を手に、31日夕刻シャッターを閉め、「また来年。よいお年を」と声を掛け合って帰っていく時、「あゝ1年が終った。本当に最後の最後までよく働いたよなぁ」としみじみ思ったものでした。

年が明け1979年、プロジェクト・イシは動きはじめたのです。
主なプロジェクトは5つありました。
① 流通企画プロジェクト(JACと販売グループで農家への作付や商品企画)
② 農事プロジェクト(自営農場の開設と運営)
③ 帰農プロジェクト(百姓志願者へのサポート)
④ 広報プロジェクト(新グループ募集・メディア対応・ビデオ映画製作)
⑤ ファクトリープロジェクト(店、車の改装、改造・お客さんの家のリフォーム)
プロジェクト・イシの運営費は10数グループからの任意の会費制で月80万円位、担い方も任意の関わり方だった。
「農事」と「広報」が活動を開始したのです。茨城県玉造町にある山林1町3反歩を購入したのです。
山林の伐採・開墾・整地、そして家屋・鶏舎の建設のため毎週末、八百屋のトラックに乗り込んで若者たちが向かいました。作業がすむと飯を作り、たき火を囲んで野宿です。
あひるの家からも仁君、むっちゃんをはじめ、店に立ち寄っていた旅人たちが茨城に向っていきました。
農場スタッフとして長本兄弟商会(西荻窪)、野勘草(国分寺)、そしてあひるの家から仁君とむっちゃんの三世帯が移住していきました。畑と養鶏と椎茸栽培で生計をたてていく計画です。
農場開設費用は1650万円(土地)+800万円(家屋建設・農業資材)かかり、10年返済で月々の返済額は30万円強というものでした。

ぼくは『ごんべえの八百屋』の小野田君、滝沢さんと広報を担当しました。
かつて映画製作にたずさわっていた小野田君は、当時広まりつつあったビデオカメラを購入し、『百姓宣言(農場開設)』『地球の羊水(伊豆大島での塩づくり)』『旬を運ぶ青春(トラック八百屋)』『ウリ物語(あひるの家のリヤカー八百屋ウリちゃん)』など10本あまりを撮り、その年の2つのビデオフェスティバルで特別な賞をもらったりもしました。
この頃からメディアの取材も多くなり、NHK『明るい農村』、朝日ジャーナル『もうひとつの若者文化』、別冊宝島『街を耕す若者たち』、an‐an、私の部屋・・・・・・
ぼくは初めてテレビスタジオにいき、『ルックルックこんにちは』というワイドショーに出たりもしました。
「有機農業」「食の安全」「若者文化」「リヤカー八百屋」「街と村を結ぶ新しい流通」と多様な切り口があったことがメディアにとって取りあげやすかったのだと思います。

メディア効果は大きく、新しい八百屋志望者や百姓たちが訪れてくることも多くなりました。
「今、新幹線の中なんですけど、八百屋やらしてください」と電話してきたトヨタの工場労働者だった(辞めてきた)山縣さんにはあわてました。
「迎えに行くから、そこから動くな。ホームで待ってて。ところでどんな格好してんの、おれはね……」。 山縣さんはそれから1週間後、リヤカー八百屋として国分寺の街にくり出していきました。
大阪からは別冊宝島を小脇に抱え、ウォークマンでジャズを聴きながら、巨人(190cm越え)関君がコテコテの関西弁で「大阪でもこないな八百屋やりたいんやけど、どないしたらいいです」とやってきたりもしました。
国産小麦・天然酵母のパン屋や味噌屋もコンニャク屋もやってきました。プロジェクト・イシの活動は、確実に拡がりとつながりをつくり出していきました。
ただ、ぼくが荒田君のイシ提案に共感したのは、「今、八百屋もJACも大変じゃない。でも、もっと先になってもうかるようになったら、共同のテーブルをつくろうなんて思わなくなるよ。貧しさは共有できても豊かさは共有できないってことだよね。だから、無理しても今つくらなきゃっておれは思うんだ」という言葉だった。

中央高速道路分倍河原高架下の流通センターJAC(ジャパン・アグリカルチャー・コミュニティー)の倉庫には、廃車になったバスがありました。座席を取り払って、台所・事務所・宿泊場所として利用していました。
JACスタッフ4人(20才代)は茨城・山梨・長野は勿論のこと、遠くは愛知まで集荷のトラックを走らせていました。1年間の走行距離は10万kmを超えていました。
月売上げが500万円強で粗利益は60万円位で、車両費などを除くとスタッフの取り分は無く、時間も金もないのでバスで寝泊まりしている現状でした。
ぼくの家に飯を食いにきてお風呂に入っていくと、湯船は泥でドロドロになっていました。屋根の下で暮らしているのが申し訳ない気がする位でした。
そんな状況の中で「もっと跳ぼう!」という提案は、「八百屋をやりたい訳ではない」「仲間がほしい訳ではない」「何をしたいのか見つからない」などと、グズグズしていたぼくの横っ面を張りとばしたのです。
プロジェクトの一端を担わせてもらって、けっして一人では得ることの出来ない経験をさせてもらいました。それは心湧きたつものでした。
着地点がどこなのかわからないのですが、浮かび上がった飛行船に乗ってもっと空高く遠くまで飛んでいければ、見える景色も変わっていくだろう、そう思ったものでした。

『あひるの家の冒険物語』第4話 突き出されたトコロテンの行く先は……

1978年春3月仁君が、その10日後に武重君が訪ねてきました。
髪を後ろで束ねて顎鬚をのばした仁君は、山梨韮崎の自給自足を営む農場からやって来ました。
武重君はこれまで定職についたことがなく、趣味の写真と不用品修理でいくばくかのお金を稼いで生活していたそうです。この日もカメラ携えてやって来ました。
国立と周辺エリアを分けて、3軒のリヤカー八百屋がはじまったのです。ぼくには「仲間がふえた!」という喜びよりも、「エーッ!どうして?」という戸惑いの方が大きかったのです。
2人はよく夜訪ねてきて、ぼくの子供たちと遊んでくれたりしながら、「里芋の傷みはどうしたらわかるんだろうか?」とか「サツマ芋がボソッと腐るんだけど」「風にあたってヨレヨレのほうれん草は、水をふった方がいいんだろうか?」「100g35円で470gあった時、どうやって計算してる?」「卵の殻、割れやすいよね」など、今日お客さんに言われたことなど話しは尽きないのです。たった半年なのに、彼等にとってぼくは八百屋の先達ということになる訳です。
そして8月、「役所辞めてきちゃった。八百屋やらして」と清々しい笑顔で、元職場の同僚だった藤井愛子さんが増田書店の前にあらわれたのです。
元職場のサークルではフェミニズムをテーマに活動し、本屋さんの前によく顔を出してくれていました。それでも、「辞めてくる。八百屋をやる」とは思いもしませんでした。
仁君のパートナーで、自給自足農場に出入りしたり八百屋を手伝ったりしていたむっちゃんから、八百屋をやりたい旨のアピールもありました。
5人で話し合いをもったのです。
「フラットのエリアを考えると、5軒のリヤカー八百屋がやっていくのは難しいよなあ」
「リヤカーの基地があるといいね。荷物のやりとりもできるし」
「八百屋だけじゃなくて、ふらっと人が立ち寄ってお茶飲んでいく場があるといいね」
「そうそう、元気のでる情報交差点みたいなスペース」
ということで、藤井さんとぼくの退職金で持てるお店を探すことになりました。「1年間やって、9月4日に八百屋をやめる」という、ぼくの秘かな決意を言い出すことができませんでした。
10月、国立西(駅から15分)の富士見通り沿いに、7坪の縦長の店をオープンさせたのです。
店の看板は、友人で画家の清重君(いもむしころう)が、「1週間分の食材提供」とひきかえに描いてくれました。濃いグリーンの下地に、大根と人参を掲げたあひるがユーモラスに描かれています。
●スタッフ:5人 30才1人 20才半ば3人 20才1人
●八百屋暦:1年1ヶ月1人 7ヶ月2人 0ヶ月2人
●販売形態:店舗(無休) 軽トラック リヤカー2台
●運営:合議制
●給与:一人一律7万円
店がオープンしてからもしばらくはリヤカー八百屋をつづけていたのですが、リヤカーで買っていたお客さんで店まで買いに来られた方は1割もいませんでした。
思うのです。
「ほとんどのお客さんは“有機無農薬の食品”が欲しかったという訳ではないんだ。じゃあ、あの熱い共感、共有のようなものは何だったんだろう?」
以降、「リヤカー八百屋のような店になりたい」というのがテーマとなります。
そんな目算外れも、立地もあったり不慣れもあり、店はあんまりというか相当売れませんでした。来客数3人という日もありました。
「待っていてもしょうがない」ということで、交替しながらリヤカーに野菜を積んで、旭通りバス停前の駐車場、大学通り緑地帯、増田書店前、富士見台第一団地などで宣伝をかねて販売したりもしました。
朝リヤカーで出発する時より、帰って来た時の荷が多いという武重君は、壊れた自転車や弦の切れたギターや、使わなくなった冷蔵庫をお客さんにもらってきたり、拾ってきて修理しクリーニングして一緒に売ったりもしていました。
店にはお客さんはあんまり来なかったけど、店内の1畳の畳スペースは“旅人たちや国立・国分寺の知り合いたちのたまり場”にもなっていたので、にぎやかな笑い声であふれていました。
空気が澱みはじめていました。
むっちゃんや藤井さんは勿論のこと、仁君や武重君そしてなによりぼく自身が、“澱み”をコントロールする気構えがありませんでした。
「店を持ちたかった」訳でも、「仲間がほしかった」訳でもなく、更に「八百屋をやりたい」訳でもないぼくには、踏みこんで向かい合ってゆく情念のようなものがなかったのだと思います。
音がすれど姿のみえない昼の花火のように、音がする度に顔をあげて、少しワクワクしながらながめるのだけど、何も見えないというもどかしさが続いた1年でした。

―訂正―

始めるにあたって「時系列と名称が苦手」とお知らせしましたが、さっそく間違えました。
リヤカー八百屋のスタートを1978年と記しましたが、1977年9月5日の誤りでした。古いメモが見つかったり、学生の頃から指折り数えてみて判明しました。
ずーっとそう思っていたので、『あひるの家の冒険物語』を書き始めた最大の収穫を得たような気がします。
あと、人名がよくでてきますが、今もあの頃も本名を知らなかった人がたくさんいたことを思い出します。通称名で記していきます。

畑だより ―今回はタマゴです―

端境期に向っています。
野菜(畑)は夏作と冬作が基本で、春作秋作というものは少ないです。
冬野菜(白菜・葉物・里芋・蓮根など)が終わりに向い、夏野菜(トマト・キュウリ・ナスなど)がマダマダというこの時期、百姓は夏野菜の苗作りや土作りに忙しく、八百屋は売る野菜がなく暇しています。
沖縄まで産地が広がったので(25年かかりました)早目の夏野菜が出てきていますが、ボリュームはありません。
そこで、今回はあひるの家が取り扱っているタマゴの話しです。栃木県芳賀郡市貝町の高田さんからになります。
農場名は『ひのき山農場』、会社名は『(有)おひさまぽかぽか』。なんとも、銀行の窓口で「おひさまぽかぽか様~」なんで、アナウンスされたら絶対「ハ~イ」などと出ていきたくない名称です(あひるの家も似たようなもんだけど)。
高田さんとは30年のつき合いになります。
25才の時に、「田舎で動物を飼って暮らしたい」とあちこち探して、「いいよ、貸してあげるよ。ただし、自分でやって」と言われたのが今の処で、桧が林立する森だったそうです。
まずは樵(きこり)から。伐採して整地するのに3年かかり、何度も「やめようかな」と思ったそうです。
はじめは豚も鶏も飼って、加工場も作ってバァーンとやっていたのですが、今は鶏だけで、それも採卵だけになっています。

高田さんの飼育の仕方と[一般の飼育の仕方]を比べてみると、

  • ひよこから5ヶ月かけて飼育し、成鶏になってから採卵をはじめます。
    [100日 (15才くらい)から採卵。体ができていないので病気多⇔薬剤多]
  • 平飼い。一坪に12羽。陽も風も通る鶏舎。昼起きて夜眠る。
    [ゲージ飼い。一坪に70~80羽。7段~8段の棚飼い。ウインドレス。終日照明]
  • 栃木産大麦・小麦、有機農家のモミ付飼料米、卵の殻、カツオ・コンブの食品残さを乾燥。食材を買ってきて自家配合。
    [輸入配合飼料。抗生物質をはじめ、予防薬剤を混ぜる。早く育てるため高タンパク高カロリーが主]
  • 淡い黄色。臭味がない。
    [トウモロコシ、色素など色付け飼料。生臭い]

高田さんいわく、「卵アレルギーの要因は、投与されている薬のせいじゃないかな」とのこと。
ひのき山農場は高田和彦・悦子夫婦と木綿(ゆう)果琳(かりん)の姉妹とお手伝いの人で運営。電話をすると若い娘の元気な声がきこえてきます。
これからも【おひさまぽかぽかの卵】を食べてください。

『あひるの家の冒険物語』 第3話  全ての道はリヤカーに通じる

ポスティングした3000枚のチラシに30件余りの問い合わせがありました。
中区1・2丁目を月・木、東区1・2丁目を火・金、東区3・4丁目と府中北山町を水・土と、3コースに分けてみました。
朝、子供たちを保育園に送っていって、洗濯物を干したりしていると、9時半位に野菜が届けられます。
野菜の多くは茨城県玉造町や北浦町の数軒の農家がメインで、ほうれん草や小松菜は新聞紙でくるんで稲わらで結んでありました。
お米は30kg袋、味噌は5kg袋、卵は10kg箱で、加工品は1.8ℓ瓶の醤油・酢・ソースで、あとベニバナ油・天塩・お茶でした。
前日の野菜の手入れをしながら積み込みの開始です。気分を奮いたたせるため、大音量でレコードをかけます。
井上陽水の『氷の世界』、吉田拓郎の『落陽』、岡林信康の『わたしたちの望むもの』、ホルストの『惑星』、ベートーベンの『英雄』などをよくかけていましたが、バッハとモーツァルトはダメでした。
積み終わるとコーヒーをいれ、庭先に干してある赤・黄・緑・オレンジ・白などのタオルから「今日はアカだ!」とか言って頭にかぶります。
10時半、出発です。家の路地を出ると走りはじめるのです。一軒寄ってまた次の一軒まで走ります。その間「ヤオヤ~、ムノーヤクノヤオヤ~!」と声を張りあげつづけるのです。
ぼくが走った理由は、霜田君のように「体を鍛える。街にくり出すパフォーマンス」ではなく、知り合いと目を合わせたくなかったのと、「息せききってお客さんのところに駆けこんで、その勢いで売る」しかなかったからです。
それでも「本当に無農薬なの?」「まっすぐなキュウリはないの?」「このトマト真っ赤じゃない。熟れすぎてんじゃない?」「どうしてこんなことしてんの?」「エライわねえ」などの問いにこたえられず、「この大根辛い?」ときかれ、辛いと買ってくれるのかと思って「ウン、辛いよ」と言ったら「辛けりゃいらない」と言われたり、「目方?メカタはタカメよね」と去っていくのを「なるほどなあ、いいこと言うなあ」と感心したり、勢いではどうにもならないことばかりでした。
そんな中、雨の中向うからやってきた上品な御夫婦が「あなた何やってんの?」と声をかけてくれ、「あの角を曲がったところだから、今度寄りなさい」と言ってくれたり、マンションの管理人さんが館内放送を使って案内してくれ、エントランススペースを使わせてくれたり、老夫婦が買う物がないのにお米を30kg買ってくれたり、「寒かったろう。家に入って休んでいけよ」と言われて上がらせてもらうとお酒と刺身が食卓に並べられていたり、「あらあら、汗だらけじゃない。シャワー浴びていったら」と魅惑的なお誘いがあったり……。
それでも毎夜眠りにつく時、「明日目が覚めたら嘘だったということにならないだろうか」と思っていました。
3ヶ月が過ぎた12月の半ば、コースを回りいつものように大学通り増田書店の前で野菜を並べていました。よく元職場の同僚や後輩達が勤め帰りに顔を見せるのですが、今日は居ないようです。吹き抜ける風に道行く人たちは足早に通りすぎていきました。
Tシャツにヤッケ、長靴にジーパンのぼくは、駆け込んできた火照りがまだ残っていました。路肩に腰かけながら立ちどまる人に売りながら、本屋さんの灯りをながめていました。何人もの人が足早に店内に入り、何人もの人が襟をかきあわせながら出ていきました。
風も強くなり通りかかる人もまばらになってきたのでリヤカーに野菜を積み込んでいる時、ふっと「そうか~。おれはもうこっち側にいるんだなあ」と思ったのです。
その気付きは家に向っている間もどんどん広がり、体や心のすみずみまでしみこんでいくようでした。
カラカラとリヤカーは快いリズムを刻んでいました。

次の日からぼくはお客さんに「実は……」と言いはじめたのです。
「実は、有機農業も無農薬も添加物も、八百屋という商売も関心がないんです……。ただ、時間通りに来ることだけは約束します」
お客さんはあきれたり苦笑いを浮かべたり、それでも「あんたが持って来るトマトおいしいわよね」とか、「そうだと思った。だってキヨツケ!しないと買えない感じだったもの」とか、「この里芋、揚げるとおいしいわよね」とサポートしてくれるお客さんもいました。ぼくの出来ることは、街の時計屋さんになることと、リヤカーの走りに磨きをかけることです。
じゃが芋・玉ねぎ・人参各々5kg、大根10本で15kg、キャベツ10kg、みかん10kg、白菜・りんご・トマト・キュウリ・卵・醤油……150kg~200kgの品物を載せるのです。
5cmの段差を乗り越えるには、上り坂はどの辺りから助走をつければいいか、コーナーをスピードをおとさずに曲がるには、停まるには、そして荷物が落っこちない積み方は……。次々と課題がもちあがってきます。
「実は……」からしばらくすると、急に売れはじめたのです。ポイントに集まって来るお客さんもふえ、お客さん同士の話しも弾み、笑い声が弾けます。ぼくはそばでヘラヘラしながら量ったり売ったりしていました。
その頃から人伝にきいてきたリヤカー八百屋志願者がひとり、またひとりとやって来て、併走するという事がおこるのです。
世田谷で『ごんべえのお宿』という保育所をやっている小野田君と滝川さんが併走し、「こんなに売れるんだ」と感心し、「子供を育てることと食べること」ということで、『ごんべえの
八百屋』と『もんぺの八百屋』という屋号で2軒のリヤカー八百屋を4人ではじめたのでした。
国立でも仁君と武重君の2人がやってきて八百屋をはじめました。
農家の納屋に使わなくなってほってあったリヤカーをもらってきて、各人デコレーションすれば完成です。
横笛を吹きながら、ギターをかきならしながら、紙芝居をやりながら、飲み屋をやりながら、昼間は……。
リヤカー八百屋は始めるのあたっても始めてからも、ほとんどお金はかかりません。リヤカーはタダだし、人力ですからランニングコストもかかりません。自営業なので働き方や売り上げの制約がありません。「ガンバッテ!」などと、お客さんから評価されることもあります。
そして何より八百屋なので食べられるのです。
たった8ヶ月余りで13軒15人のリヤカー八百屋が誕生し、全員が20才代でした。

昼御飯を食べる間もなくなったぼくは、保育園のお迎え時間ギリギリにリヤカーで駆けこむのです。雨の日は全身ビショ濡れで、暑い日は真っ赤な顔で。
子供たちは友達に「おまえんちリヤカーある?乗せてあげようか」と自慢気にリヤカーに乗りこみます。友達一人一人を家まで送っていって、家に帰ってある野菜で夕食の準備です。夕食の支度をしながら、子供たちは今日保育園であったこと、ぼくは今日八百屋であったことを喋るのです。
休みの日に子供たちと歩いてみると、ぼくが一日虫のように這いずりまわっているエリアは、直線距離で5分もかからないところでした。
週末、今週分の支払いのため、1週間分の売り上げを数えるのです。缶に入ったコインを机の上にばらまいて、子供たちと1枚2枚3枚と積み上げていきます。支払い分を除いたこの山が、1週間分の稼ぎなのです。その額は、勤め人をやっていた時を上回ることも多くなったのです。
1年が1日のように過ごしてきたぼくにとって、リヤカー八百屋の日々は1日が1年のようでした。
胃薬が手放せなかったぼくはご飯を3杯も食べ、風邪をひくこともなくなりました。マイナス要素と思っていたもののひとつひとつがプラス要素に転換しつつありました。
そしてぼくは、「全ての道はリヤカーに通じる」と呟くのでした。

『あひるの家の冒険物語』 第2話 その前夜 ―PARTⅡ―

ほどなくしてぼくは役所勤めを辞めることになりました。
相談もかねてその旨久美さん(妻)に伝えると、「やってみたいんだから、やった方がいいよ。ただ、10万円家に入れてね」と言うだけで、家に持ち帰った保育園の事務仕事を続けていました。
退路は断たれたのです。
職場では上司に喜ばれ、同僚や後輩から何で?それで?と、たくさんの疑問符が投げかけられました。そのどれにも明確に答えることはできませんでした。
どうしたって、「コーヒーとタバコとコーラがあればいいや」というぼくが、「有機無農薬の八百屋を、それもリヤカーでやる」というのは、こじつけるのも無理なことでした。
八百屋をはじめるまで2ヶ月位の間があり、朝、3才と5才の子供たちを保育園に送って行って、迎えに行くまですることがありませんでした。
有機農業や安全安心の食べものに関する本を何冊か買ってはみたものの、表紙をながめているだけでした。やったのはヒゲをのばしたこと位です。
それでも、流通センターJACの吉川君や荒田君の集荷のトラックに乗って、茨城や長野の農家に連れてってもらい、話しをきいたり収穫を手伝ったりしたのですが、ただひたすら暑かったのと、おやつに出された手のひらいっぱいの白砂糖と、明け方戻った東京で食べた牛丼が旨かったことが印象に残ったことでした。

霜田君は中央線西荻窪の長本兄弟商会の店先を借りてリヤカー八百屋をやっていました。
1960年代後半~70年代前半にかけて、若者たちの先端的文化活動が2つありました。「自立と連帯」を掲げ学校や街頭をフィールドにした全共闘運動と、「Love&Peace」を掲げ離島や山村をフィールドにしたヒッピームーブメントです。
長本兄弟商会はヒッピームーブメントの人たちによってはじめられた八百屋です。
その仕入部門を担っていた3人が、「もっとたくさんの八百屋をつくらないとつぶれちゃうよ」と独立してはじめたのが流通センターJACで、ぼくが出会ったのは発足間もない頃でした。

暑い暑い夏の無為な日々は、ぼくから体力も気力も意地も見栄も奪いとりつつあり、子供たちを保育園に迎えに行く時間を心待ちにするようになりました。
霜田君は公演が忙しくなり、八百屋は休止していました。
外堀も内堀も埋められたぼくは、開き直るしかありません。
●力仕事をしたことがない。 ●安いだ高いだ金のことを言うのはカッコワルイ。 ●野菜はあんまり好きじゃない。  ●安全な食べ物に関心がない。 ●農業なんて知らないよ。 ●若いネエちゃんは好きだけど、おばちゃんはなあ…
全てはマイナス要素ばかりです。

それでもやらなくちゃいけないのですから、八百屋をはじめる理由(ワケ)を自分に言いきかせるしかないのです。
「29年間オレは、得意なこと好きなことだけをやってきて、そんな自分を変えたかったんだろ。苦手なことをやってみるというのもいいんじゃないか」
「社会が大きいこと、速いこと、システマティックに向かっていく中、その真逆のことをやるのは、もしかしたら新しい価値が見つけられるのじゃないだろうか」
「百姓が土を耕すように、街をリヤカーで地を這うことで翔べるんじゃないだろうか」
「アヒルも昔空を飛んでいたのに、人間に馴らされることで飛べなくなったという。オレたちも社会のシステムに馴らされることで翔べなくなっているんじゃないか」
「そうだ!空を飛び回る夢みて、八百屋の屋号はあひるの家としよう!」
元職場の同僚や後輩たちが、刷りあがった3000枚のチラシを手分けしてポスティングしてくれたり、野菜保管のための倉庫を作ってくれたり、半分に切った丸太に「あひるの家」と彫った看板をプレゼントしてくれました。
そして、秘かに「1978年9月5日からはじめて、翌年の9月4日にやめよう。修行のつもりで」と、固く決意したのでした。

新連載『あひるの家の冒険物語』 第1話 「その前夜 ―PARTⅠ―」

流通センターJACの吉川君が、4トンのトラックで改造リヤカーを運んできてくれたのは、夜も9時をまわった頃でした。
「ガンバッテ」と手をさしのべトラックに乗りこんだ後には、外灯に照らし出された二段の棚とワゴン形フレームがほどこされた物体が置かれていました。
それは、ぼくが頼んだリヤカーです。
「引いてみよう」と道路に乗り出しました。
持ち手のフレームは夏だというのにヒヤリと冷たく、空のリヤカーは思いの外軽く、車輪のカラカラ回る音が真夏の夜に響いていました。
道々の家には灯りがともり、出会う人もいません。
近所を3周した頃、運ぶ脚のこころもとなさに道端にしゃがみこんでしまいました。
フレームのよそよそしい冷たさや、カラカラと空回りする車輪の音や、重いのか軽いのかよくわからない実体感のないリヤカーや、行き交う人のいない暗い道や・・・・・・ なにより「明日という日が来る」ということに脅え、追い詰められていました。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

ぼくが「リヤカー八百屋になろう」と思ったきっかけはその半年前、リヤカー八百屋をやっていた舞踏家・霜田誠二君(24才)との出会いでした。
その頃ぼくは役所勤めをして6年が経ち、年齢も29才になっていました。
役所勤めをはじめた理由は「いちばんゆるそうな仕事」だったからで、勤めながらしたい仕事を見つけられればいい、というモラトリアムの感覚でした。
とても居心地の良い職場環境でしたが、30才が近づいてきたぼくは、「このままいくんだろうか?何がしたい?何ができる?」と焦りはじめていました。
そんな時、役所の先輩で同じサークルをやっていた松田さんが、『かっぱの家』という自主保育をやっているところの保父さんになるため退職していきました。
「辞めなくちゃ」焦りは募るばかりです。
『かっぱの家』のバザーを手伝いに行った時のことです。
玄関口でモンペ姿の青年が野菜を並べて売っていました。
品数も鮮度も見映えもパッとしない野菜なのに、たくさんの人が「シモちゃん」「セイちゃん」と声をかけ買っていきました。
坊主頭で陽に焼けた体躯は、草原を駆けるチーターをおもわせる敏捷さと色気を感じさせます。
お客さんがいなくなり、隣りに座って青年と話しをしました。
舞踏家で、身体を鍛える意味もあってリヤカー八百屋をやっているとのこと。「だから、ぼくにとって街は舞台で、お客さんは観客な訳ですよ。毎日、今日は街に右肩から入ろうか左肩にするのか考える訳です。じゃが芋や人参や大根を使って、今日はどんな身体表現ができるか勝負な訳です」と語る言葉は、はじめ「たかが八百屋で何を言ってんだろう」と思っていたのですが、段々魅きこまれていって、実は「感動してしまった」のです。
そして、最後に指をさして「狩野さんならできますよ」と言った言葉は、笑うセールスマンのモグロ!のような衝撃波を放ちました。
その後、勤めを休んで2回、リヤカー八百屋に伴走しました。
届いていた野菜をそのままリヤカーにのせ、出発と同時に走りはじめます。歩くということはないのです。
走りながら「ヤオヤ~ヤオヤ~」と声をあげつづけ、坂道も一気に駆けあがり、駆けおりるのです。まさに、街を疾走するのです。
近所の子供たちが出てきて、「ヤオヤ~ヤオヤ~」と叫びながらついてきます。
住宅街に着くと、向う三軒両隣から買い物カゴをさげたおばちゃんたちや、手をひかれたおばあちゃんたちが集まってきて、ダンボール箱を開けはじめる。霜田君は台量りの前に座って「にんじん85円、キュウリ120円・・・」と、持ってきた野菜の値段を言い、「735円です」とお金を受けとる。
お喋りをして、また次のスポットへ走る。5~6ヶ所のスポットをまわって一日が終る。
店先にリヤカーをおくと、お札だけポケットに入れ、「オレ、ひとおよぎしてくるんで、また」と高く手をあげ、人混みにまぎれていきました。
帰りの電車の中で、体も心も熱の坩堝に浸っているようでした。
「オレも恰好よくなりたい・・・・・・ オレもリヤカー八百屋をやってみようかな・・・・・・・」などと思っているうちに、快い疲れと電車の振動でまたたく間にまどろみにひきこまれていってしまったのでした。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

あひるの家をはじめて40年になります。もうそろそろ振り返ってもいいかなと思いました。
ただし、記されていることは記録ではなく記憶に因るものです。更に、名称(人名地名)、時系列(あれとこれとどっちが先?後?)がダメなので、関係した人たち誤っていたら「ボケッ!」とか言って笑い過ごしてください。

あひるの家代表 狩野 強

画像 007

お年玉代わりに「ちょっと若気のお話しを…」

いつもいつもお客さんやその子供たちに、「なんであひるの家って言うの?」「あひる、いないじゃん」「カエルじゃダメなの?」と尋かれ、「今散歩中でいないんだよ」とか「ワァワァガァガァうるさいからじゃねえか」とか「もっと気分が乗ったらな」とかごまかしてきた「なんであひるなの」に、まっとうにお答えします。

時は1978年、不良公務員生活6年3ヶ月、29才の私は「30才になる前にもっとマジな生き方を見つけなきゃ」と大いに焦っていたのです。そんな時ひょんな縁で、“一球勝負、一発逆転”みたいな気持ちで、リヤカー八百屋になることを決意したのです。
それも、その年の9月5日に始め、翌年9月4日に終わる期間限定八百屋としてスタートしたのです。
何故って、「野菜も農業もお金も力仕事もおばちゃんもヒッピーも大キライ!!」だった私にとって、それは修行のようなものだったからです。
始めるにあたって、やっぱり例えリヤカー八百屋でも屋号がいるでしょうと思った訳です。かといって、八百強とか安全八百屋というのもしっくりこない、どうしよう… なににしよう…
その頃、アメリカの作家でエリカ・ジョングの『翔ぶのがこわい』(注:正確には『飛ぶのが怖い』)という小説があって、「翔ぶ」という言葉がはやっていました。「そうだ、おれはリヤカーを引いて地を這うことで翔ぼうとしているんだ」と思った訳です。翔べないオレ → 翔べるオレ → 鳥なのに翔べないアヒル → 空を翔ぶアヒル と連想ゲームはつながったのです。

「空を翔ぶアヒルになりたい!」

それが答えです。「なあ~んだ」と言うな!だから言いたくなかったんだ。

2017年1月6日 あひるの家代表 狩野 強(明日が69才の誕生日)

kanban

畑だより ―年末野菜はあるのだろうか?―

台風がつぎつぎと上陸した夏以降、「こんなに野菜がなかった時はなかったなあ」とタメ息ばかりの今年、サテ、最後はうまく締められるだろうか?ということなのですが、「ダイジョーブです」と言えそうです。
播きなおした秋野菜と、はじまった冬野菜が重なりはじめ、やや過剰になりつつあります。
晴天がつづくと野菜の生育が早く前倒しになり、今度は年末野菜が手薄になるんじゃないかの心配もありますが、「今冬は寒い!」ということなのでダイジョーブでしょう。
まず正月野菜ですが、小松菜・ほうれん草・春菊・ゆり根・セリ・柚子・銀杏・八つ頭・金時人参は豊富にあります。
お雑煮に欠かせない三つ葉は、今季も期待できません。情報を集めているのですが、芳しくありません。
冬野菜としてはブロッコリー・カリフラワー・セロリ・キャベツなどが、霜がおりることがない愛知渥美半島から、いんげん・ピーマン・きゅうり・トマトなどが、今なお25℃ある沖縄から届いています。
金柑・いちごも始まりました。寒さで一段と糖度をまし、野菜・果物がおいしくなっています。
年末は26日~30日まで毎日入荷します。

moti

畑だより ―野菜がおいしくなってきたゾ!―

aki

天候も安定してきて、野菜もようやく出はじめました。
寒さを感じる日も多くなり、一枚一枚と着る物を重ねていくように、野菜たちも寒さで凍ったりしないよう糖度をあげて寒さをしのいでいきます。ということは、甘~く実もしまって旨さがまします。
収穫が終って雪景色に変わった北海道の貯蔵庫では、じゃが芋・玉ねぎ・人参・南瓜が、これまた凍らないよう糖度をあげていきます。
野菜ってなんて賢いんでしょうね。生きてるってことだよね。
ということで、大根・蓮根・長ネギ・里芋・さつま芋・ごぼう・北海道野菜がおいしくなってきました。
葉物類も、北原君の畑は小松菜・小かぶ・パクチョイ・わさび菜・京菜・赤リアスからし菜とバリエーション豊かになり、茨城からの白菜・春菊・ほうれん草もはじまり、ラインナップがそろいました。ただ、「霜があたって甘くなる」のにまだ間があるので、味ののりはもう少しです。
寒くなって甘く、味が濃くなるのは果物も同じで、酸味が抜け深い味わいになってきたみかん、各々の味わいがはっきりしてきた【ふじ】【北紅】【千秋】【紅玉】【星の金貨】などのりんご、色も味もよくなった富有柿(ただ、10℃を下まわると透明になってしまうけど、これはこれでウマイ)と楽しめます。
「あ~あ、これから冬かよ、春だったらいいのになあ」と、ついため息がでますが、食い物はうまくなってきます。あったかいものを食べて、元気だしていきましょう。