Daily Archives: 2022年5月21日

『語り継ぐ物語』 その2 王隠堂編 ~鬱蒼とした杉林を抜けると、天空の屋敷があらわれた~

奈良市内から車を走らせること2時間。
杉林の山道を行けども行けども民家の一軒も見あたらず、勿論電話ボックスなど見つかりようもないのです。
「もう帰ろうか?きっといたずら電話だったんだよ。腹へったし」
と、関西センターの関君と2人途方にくれていたのです。
「あの峠に出たら帰ろう」ということで、峠の頂に着くと、なんと広大な屋敷が出現したのです。
鳥居のような門構えの柱には「王隠堂」という大きな表札が掲げられていました。
中を覗くと奥まったところに平屋の家屋があり、庭一面に白い玉砂利が敷きつめられています。
重々しい引き戸を開けて、「スミマセ~ン、王隠堂さんいます~」と声をかけたのです。
玄関の壁には籠がつりさげられ、襖には毛筆で何やらしたためられています。
「は~い」声がして、渡り廊下を歩いてくる姿がみえました。
「政見からは伺っておりますので、柿畑にご案内します」と、モンペをはいた老女は王隠堂さんのお母さんでした。
山の中腹の柿畑では、作業着に地下足袋の王隠堂さんが、骨粉の混じった堆肥を柿の木の根元に敷きつめていました。
家への道々、梅林を通りながら「これは梅酒用、あれは梅干用ですわ」と指さしてくれるのですが、梅酒用は青いうちにとり、梅干用はそれを熟させたものと思っていたので、「そもそも木がちがうんだ」と初めて知ったのです。
家に戻ると食事が用意されていました。
素麺・山菜・川魚の天麩羅・香の物というメニューで、素麺のつゆは青竹を半分に割ったお椀でした。
「こういうのは上品にいただかなくちゃいけないんだろうな」と思いながらも、腹が減っていたので即完食でした。
屋敷の裏手の山々が一望できる縁台に座って話しをしたのです。
「王隠堂さんの敷地ってどの位あるんだい?」ときくと、腕を左から右にぐるりと回して「見えるところすべてです」と言うのです。
話しをきくと、700年余りつづく旧家で、南北朝時代に後醍醐天皇を匿ったことで「王隠堂」という名をいただいた、ということです。
「国産材の需要が激減して山仕事がなくなり、農作物も柿と梅と花梨位しか穫れないので、西吉野から若者たちがどんどん街に出ていってしまったんですわ」
「先日奈良新聞を見ていたら、『有機八百屋開店』の記事が出ていて、連絡させてもらったんですわ」
「傾斜地の多い村では、どうしても平地に比べ畑仕事も収穫量も厳しいものがあるので、何か特徴になるものがないか考えていたんですわ」
その横顔は、父親の急死で若くしてかつての大地主を継いだ並々ならぬ矜持を感じさせるものでした。
有機八百屋をはじめて3年の関君と私は32才、「西吉野を有機の里に」とチャレンジしようとしている王隠堂30才、ともに意気投合して山を下りたのです。
ふもとで食堂を見つけ、ラーメンの大盛りを食べたのは言うまでもありません。
その後、梅・柿・花梨は勿論のこと、梅ジャム・柿ジャム・花梨ジャム・梅シロップ・梅のどあめ・花梨あめ・柿チップ・柿せんべえ……と、ともに商品開発をすすめ、ポラン広場グループはこぞって販売に力を入れていったのです。
西吉野村に円型プールのような梅干の作業所をつくり、仕事をつくり出していったのです。
商品企画の半分は売れず、製造販売中止になっていくのだけど、売れ筋の商品を王隠堂は生協やデパート、スーパーへと売り込んでいったのです。
商品企画会議で山を下りてきた王隠堂はなかなか帰らないようで、よく家から「政見はいつ頃戻るんでしょうか?」と電話があり、ポランのスタッフも「スミマセン!会議が長びいていて」と電話を切るのだけど、「会議はおとつい終わってんじゃん。ミナミで政見見たってよ」ということもままあったりしました。
和歌山にも梅林を広げ、レストランもはじめ、「王隠堂ブランド」は広く信頼をあつめるようになっています。
そのはじまりが、あの日だったかもしれないと思うと、八百屋冥利に尽きる1日でした。

『語り継ぐ物語』のこと

あひるの家の商品棚には数多くの品物が商品として並べられています。
商品ひとつひとつには人の営みの積み重ねがあります。
こだわりやゆずれないものや守りたいことやすすめたいことなど、なかなか商品だけでは伝えられない一端でも知っていただけたらと思い、「物語」(不定期掲載)をはじめることにしました。
ちなみに『語り継ぐ物語』その1は、前々号のあひる通信「沖縄編」でした。
パン屋さん魚屋さん豆腐屋さんお百姓さん……皆さんの日々の営みと重ね合わせ、励みになるようなものが記せたらいいなと思います。